『唯物論研究年誌』

1996.10.08

創刊の辞

 戦争と革命、悲惨と希望そして幻滅にいろどられた、二〇世紀のこの百年が終わりに近づき、人類は新しい世紀を迎えようとしています。しかし私たち、この地球に生きる人類は、新しい百年を迎えて新たな出発をはじめるのにふさわしい理念や構想を持ちあわせているとは、とうてい言えない現状にあります。

 私たちが今までの生活様式を惰性のままに続けていくとしたならば、私たちが自らの手で、遠からず地球環境と人類自身を滅ぼしてしまうだろうことがすでに確実なのに、私たちはいまだ根本的な対応策をもっていないのです。

 では、どうしたらよいのか? いま明らかになりつつあることは、現在の危機は、たんなる世紀末の転換ではなくて、この数世紀にわたる近代文明から淵源しており、したがって近代的生活様式そのものの見直しが求められていることです。地球環境破壊、北の繁栄と南の貧困、諸民族間の抗争、国民国家のゆらぎ、また大量生産・大量消費・大量廃棄のライフスタイルの隘路、科学および技術の歪んだ発達、民主主義の空洞化、アイデンティティーと倫理の喪失、等々の私たちがかかえる諸問題は、近代の原理そのものを問い直しています。

 私ども、唯物論研究協会は新しい理論機関誌をここに発足させようとしていますが、この機関誌(年誌)は、右にふれたような、時代が私たちに突きつける諸課題を正面からうけとめ、鋭い分析をおこない、その思想的意味を含め、解決方向を探るものでありたいと思います。

 そのためにはさまざまなかたちの大勢追従主義におちいらず、批判的精神を保持し続けることが肝要です。自由主義や市場万能論は、現在のもとでの「歴史の幸福な終焉」といったイデオロギーさえ奏でていますが、そのような構えで現在人類が抱えている危機を打開できるとはとうてい思えません。

 また近代的原理への批判は、他方で、すでに人間の主体性が解体されているのではないかという懐疑をうみだし、さまざまなタイプの「人間中心批判」が語られています。しかしそれは真にラディカルな批判といえるでしょうか? 「ラディカルであるとは、ものごとを根元(radix)においてつかむことである。ところで、人間にとっての根元とは人間自身である」という若きマルクスの言葉は、今の時代においてこそ省みられるべきではないでしょうか。人間への熱い想いが欠けたところに、自然への関心も、地球への愛も、平和のための努力も生まれるはずがないからです。たんなる「差異の戯れ」や諦念を克服して、現状に甘んじない変革への意志を持ち続けることもまた肝要です。

 時代が突きつけている難問を解決するためにも、私たちは人々の協同の新しいあり方を模索しなければなりません。これまでの親密圏のあり方の再検討、公共圏の建設問題、社会主義の新しい構想をはじめとして、人種、階級、市民、ジェンダーのあり方の検討も、大きな研究課題として念頭におくべきでしょう。

 私ども唯物論研究協会は、一九七八年の創立以来、これまで『唯物論研究』(半年刊)を一一号、『思想と現代』(季刊)を四〇号刊行し、時代の課題にかかわる理論と思想の研究を積み上げてきました。ここに刊行を開始する『唯物論研究年誌』は、これらの成果をふまえつつ、気持ちを新たにして、問題への鋭利な科学的・理論的分析と、いっそう深い思想的・哲学的掘り下げを果たしていきたいと考えています。そのためには諸分野の科学と哲学とをかみ合わせ新しい視野を拓くことが必要です。

 この『年誌』は、会員の研究発表の場であるとともに、広い読者と一緒に問題を考えていくプラットフォームでありたいと念じています。会内外の心ある人々の熱意によって、この『年誌』が守り育てられることを期待して、以上創刊のことばにかえさせていただきます。

唯物論研究協会委員長 石井伸男

引用元:唯物論研究協会編『唯物論研究年誌創刊号 終末の時代を超える』(青木書店、1996年)、6~7頁より。

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