シンポジウム趣意書

 <自立>イデオロギーの歴史と現在――労働・所有・シティズンシップ

  昨今、新自由主義の政策、思想が跋扈する日本社会にあって、自立自助が強調され推奨される。だが、これらとは、一見位相を異にすると思われる様々な社会情勢からも、<自立>が強調されたり賞揚されることが多い。例えばそれは,正規雇用削減と不安定雇用増加がすすむ中での、「自立した生活ができる賃金保障を!」といったスローガンであり,ニート問題とも絡んだ「若者の<自立>が重要だ」とする言説,障害者の自立生活運動の広まりや、通称に過ぎぬにせよ、障害者自立支援法なる法の制定等々である。これらの<自立>論は、新自由主義型<自立>論が個人の自己責任論と結合させて強調する<自立>とは、はたして異なることなのだろうか?またそこには、真の自立と偽者の自立といった区別があるのだろうか?

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 確かにもともとは、<自立>更には自律は、資本主義的近代の成立期以降、克服すべき依存や他律―――共同体への束縛や身分的従属―――に対して、多くの場合、肯定的意味を付与されてきたことではあった。しかも考えてみれば、現代でも、学校教育の目標は<自立>であるし、そもそも一人前にという成長の目標も<自立>である。そうした背景を踏まえるなら、自立という観念に意義があることは確かかもしれない。国民ないし市民としてまっとうな生き方を保障することになるはずのシティズンシップも、<自立>のための要件とされることが多いだろう。

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 だが、果たして<自立>にそれ程の意義があるのか,という疑問が出てきてもおかしくはない。それは、そもそも人間存在の共同性や依存性という事実を見た場合であるが、更には、日常生活等々における庶民個人の自己責任が、まさに<自立>の名の下に、理不尽に強要される現実を考えても、<自立>への疑問がでてきて不思議ではない。またそうした<自立>の多くは、一定水準以上の私的所有を前提にしたものだし,更にまた私的所有は一定水準以上の労働とこれを担保する能力を前提にしている。とすれば,この一定水準以上の所有や労働や能力なき存在はどうなるのか?労働による賃金収入では,生活保護水準以下となり,とても自立どころでない労働者が20%を超える日本の現実。これらは、<自立>という言語の意味内容を再検討して事足れりと言うわけには到底ゆかない現実である。  

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 加えて言えば―――本来は真っ先に指摘すべきことかもしれないのだが―――先進国での諸個人の様々な<自立>は、しかし、「発展途上国」での多国籍企業の展開など、現代帝国主義による収奪や搾取に基づいていることも多い。先進国及びその諸個人の<自立>が、帝国主義的現実に支えられている問題は,近代の初頭から、近代市民社会を謳歌した西欧「先進国」に根深く存続してきた問題であり、その事実は、<自立>問題を扱うには、丹念に歴史や思想史全般を辿って現代に至る道筋を通るべきことが必要なことを告げてもいよう。

 

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 <自立>と自己責任がセットで強要される現実が、社会保障削減の口実となる事実を中心に、現代日本では、<自立>の強調が諸個人、特に庶民の生活不安を昂進し、その生存保障を根こそぎ危うくしている状況があまりにも多い。例えば「社会的諸関係のアンサンブルとしての人間の本質把握」(マルクス)からすれば,<自立>を人間の本質とすることはもちろん、<自立>を望ましいとみなすことにそもそも根本的な問題がある、と言うべきかもしれない。にもかかわらず、<自立>という観念は大衆的支持を受けるのみならず、庶民の目標として機能してさえいる。つまり、新自由主義的なイデオロギーの一環としての機能する<自立>と、おおむね肯定的に把握されてきた<自立>との錯綜が存在している。

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 したがって、<自立イデオロギーの歴史と現在>を明らかにすること、とりわけ<自立>が強要される今日的文脈を批判的に解明することには、大きな意義があるように思われる。本シンポジウムでは、近代から現在に至る市民社会や帝国主義に関わる分野、教育を中心とする育ち・成長に関わる日常生活の分野、新自由主義を中心とする現代のイデオロギー状況という分野、という三つの分野を焦点にし、それぞれの分野について三人の専門家(平子友長一橋大学教授、平塚真樹法政大学教授、吉崎祥司北海道教育大学教授)からの報告を頂きながら、<自立>問題に迫りたい。