認識論の観点から見た物質と意識

北陸大学  池田昌昭

目   次   

1.意識発生のプロセス

2.物質代謝の結果としての意識発生

3.認識論の観点から物質と意識を考える   

4.マインドコントロール   

5.脳内物質   

6.意識発生の物質的基礎   

7.養老孟司著『唯脳論』批判  

1.意識発生のプロセス  

 意識発生のプロセス・メカニズムを考えてみたいと思う。

 まず第一に明確にしなければならないのは、意識は外的環境の刺激という外的物質環境から発生する。

 第二に外界刺激を受けたわれわれの脳が、脳神経細胞群の働きの結果として意識を発生させているということである。

 まず第一の観点である外界刺激の受容について考えてみたい。唯物論は外界環境からの刺激受容について、反映論を唱える。すなわち意識は外界存在を反映すると。ただこれだけでは何のことか分からない。外界存在の中に生きるわれわれが、われわれ自身の感覚器官の働きを使って、脳が外界刺激を受ける。

 すわわち秋田のこの場所に、哲学を愛する人々が集まっていることをわれわれの眼が観る。この外界刺激は信号として脳に送られる。この信号の働き自身も言ってみれば、化学物質の働きである。 

 化学物質の働きの結果である電気信号は、脳神経細胞で受容される。「ああこの研究集会は面白い」とか、「役立つ」とかの「照合」がまず行われる。そこで登場するのが、記憶にかかわる脳神経細胞群である。記憶に照合とは、まずこの研究集会に類似した集まりについて「照合」する。脳の記憶領野には短期記憶と、長期記憶とあり、特にきちんと保存されている長期記憶に照合して、判断が下される。 

 ところで、われわれの記憶もまた言ってみれば、記憶を司る機能としての蛋白質の働き結果ではないのだろうか。 

 記憶については、われわれは良くこれは覚えなければならないと思うことは、繰り返し学習し言わば、脳に「刻み込む」。この「刻み込む」ことは脳科学的にも合っているように思う。なぜなら、記憶として脳に保存されるには、痕跡と言おうか、脳の記憶分野での脳神経細胞群の働きの結果と結びついている情報処理過程、物質的基盤が必要となる。そして記憶として貯蔵される物質意的基盤の先に見えてくるのは、蛋白質もしくは、情報処理過程としてキチンと脳内に痕跡を残しておく物質的機能が必要と思われる。

 さてここまでは「反映」の領域といってよい。問題はこれから先の「創造」に関することである。まず「創造」についてだが、「創造」は意識の働きの一種といってよい。なぜなら「では、創造の源泉を見せて下さい」といっても、それは見ることはできない。つまり現前する物質とは違う。われわれが知ることができるのは、創造の結果現出した絵画や、音楽という物質的存在である。

 ではこの創造のプロセスを検討してみよう。先ほど創造は、意識の働きに拠ると言った。とすれば意識の働きとは一体何か。景色を美しいとする意識の働きのメカニズムは、一体何なのか。それは幾度も言うように、意識は宙に浮いたものではなく、脳神経細胞群ネットワークの働きの結果、脳の情報処理過程の結果だと考える。

 すなわち、われわれが外界刺激を受けて「ああ、あの自然は美しい。絵画に絵が描きたい」との意識が発生する源泉には、脳神経細胞の物質的働きの結果、いわば物質代謝の働きの結果として「ああ美しい自然だな」という意識(これが意識ですと、手にとることはできないが)が発生すると考えられる。

 この考えは悪しき物質還元主義、何でもかんでも物質に還元しているという批判を受ける。しかしながら、意識の働きの基礎には物質的基礎があり、意識は脳の物質的な働きが転化したもの、脳内物質間の相互作用の結果であると考えられる。すなわち意識もまた脳という物質的、外界環境という物質的基礎を持っている。

 2.物質代謝の結果としての意識の発生

  逆に考えてみよう。意識の働きの元となる物質的基盤を特定できたとして、ではその「物質的基盤」を注射すれば、素敵な意識が発生するものだろうか? このことを考える際に、マインドコントロールのことを考えてみよう。すなわち、意識を逆にコントロールできるかどうかの問題である。マインドコントロールというのは、繰り返し、繰り返し、外部からの刺激を与えることによって、脳内に同じ意識発生の基盤となる物質(蛋白質分子)が産出されるのではないか。

 ちょうどパブロフが発見した「条件反射」の理論のように、同じ刺激を外部から反復して与えれば、同じ蛋白質分子産出が為されるのではないだろうか。同じ外界刺激を与えることによって、意識の発生プロセスにルート(道筋)を作ってしまうのが、マインドコントロールである。

 ではここで逆に考えてみよう。合成した、脳内から抽出した蛋白質分子を外部から注射で注入することによって、意識が発生するだろうか。ある芸術家の「美的意識」の合成物を他の人に注射して、果たして素晴らしい芸術意識が発生し、素晴らしい芸術作品が誕生するであろうか。

 答えはノーである。なぜなら、前にも述べたように、蛋白質分子は外界刺激を受けて、個々人の脳神経細胞の働きの結果として産出される。その意識発生のプロセス、基盤を欠いて、いくら素晴らしい「芸術的・美的蛋白質分子」を注射しても、効き目はないと思われる。従って外部から注射で「芸術的・美的蛋白質分子」をいくら注射しても、その人の脳内にその蛋白質分子を適切に受容・消化吸収する脳神経細胞のネットワークが存在しないところでは、無理なのである。

 では人間意識への薬物による侵入は、まったく不可能なのだろうか。私は、脳科学が進歩すればすればするほど、意識は発生のプロセスが解明されればされるほど、意識への化学物質(薬物)による侵入が行われる。意識への侵入の具体例は、「自白剤」の存在である。

 「自白剤」が人を自白させるということは、意識回路への薬物による侵入がある程度行われていることを意味している。ということは逆に脳内蛋白質分子の解明がある程度進んでいることを証明している。「自白剤」は、たぶん最初は鎮痛剤や、麻薬の研究から進んだのであろう。よく意識朦朧と言うが、きっと最初は意識朦朧の状態に陥って、質問されれば、喋ってしまうのだろう。この「自白剤」等の存在自体が、われわれの意識そのものが脳の働きの結果であるという唯物論の考えの正しさを証明している。

 「自白剤」の作用順序は、まず脳神経を麻痺させる。充分に働らかなくなった脳に対して外部から質問がなされれば、その通りに応えてしまう。これが「自白剤」と言われる所以である。アルコールも飲みすぎると、饒舌になるのは、やはり脳神経細胞にアルコールが作用して、今まで抑制していた神経回路を開いて、喋るようになる。「自白剤」の研究は、脳研究と共に発達した。脳中枢神経に効く薬物の発見は、アルツハイマー病や、鬱病の治療への道を拓いた。

 3.認識論の観点から物質と意識を考える

  認識論の根本問題は、物質と意識の関係を解き明かすと同時に、では意識は物質的世界すべてを認識できるかの根本問題を提起する。結論を先に言えば、意識は外界世界のすべてを認識できないが、外界世界を反映する能力により、外界世界のことを知ることができると同時に、外界世界を改善するために働き掛けていくことができる。

 この認識論の観点から、物質と意識もしくは、反映と創造の問題を考えてみたい。逆に言えば、われわれがクリエィティブというときの、創造性の原点は一体どこにあるのか。

 結論を先に言えば、「反映と創造」というときの、創造もまた意識の働きの結果であるがゆえに、創造性もまた、意識の発生源である脳神経細胞群のネットワークの働き、もしくは蛋白質分子産出に起因する。しかもこの創造的意識は、発生した蛋白質分子の中でも、最も優れた性質と言おうか、高度にいわば、脳内によって磨き上げられた結果、産出される。 ではこの高度化された創造にかかわる蛋白質分子は、どのようなプロセスで産出されるのか?

 まずだれもが、高度化された創造的な蛋白質分子を脳内で産出できるわけでもない。また、芸術に秀でた人の創造的蛋白質分子を注射で別の人に注入しても、創造的な作品ができるわけでもない。やはり受け入れ基盤といおうか、いままでたとえば、美しい外界環境に接して絶えず、美的意識・美的感覚を磨いてきたというプロセスが必要である。

 美的なものに関心を持ち、外界環境から美に関する刺激を絶えず受け、その刺激をたとえば絵筆をとるといった、具体的な行動に結びつける脳内の過程がしっかりと組み立てられることが必要である。これが創造性にかかわる第一の条件。 第二の条件は、やはり美的なものに絶えず関心・興味を持ち、それを具体的に絵画ならば、絵画という具合に、表現していく訓練の過程が必要となる。 悪しき物質還元主義に陥らないように戒心しながら、この蛋白質分子の問題を考えてみたい。蛋白質分子発生プロセスは、以下のように考えられる。

 @ 意識発生の源泉となる外界刺激が強ければ強いほど、それに対応して強い蛋白質分子が脳内で産出され、いわば強い意識が発生する。

A ではこの蛋白質分子の正体は何か。たぶんそれは化学物質の一種だと思われる。なぜなら人間の身体の働きは、化学物質の代謝過程と言ってよい。人類の初期のころには、この蛋白質分子の脳内での産出も多くはなかった。

B しかし、人類の幾世代にもわたる継承ののち、外界刺激をわれわれの感覚器官がキャッチし、より鋭敏な蛋白質分子を産出するに至ったと思われる。具体的には、絵画や音楽といった分野で創造的な作品が産み出されていった。

C ということは、蛋白質分子自体もまた進化の過程を辿っているのではないか。人間の脳神経細胞群もまた、進化と深化の過程を辿っているのではないだろうか。

D 蛋白質分子の特定作業よりも、この意識発生のプロセスを哲学的、脳科学的に探求する必要がある。

4.マインドコントロール

  では発想の観点を換えて、意識の制御は可能か?

 1.マインドコントロールとは、脳内での意識形成を薬物や、外的強制等物理的なものによってコントロールする。

 2.すなわち、一定の特定された外界刺激を反復することによって、同じ蛋白質分子を脳内に産出させるルートを作ってしまう。これがマインドコントロール。

 意識のコントロール、マインドコントロールの研究は進んでいる。マインドコントロールの基本原理は、脳神経細胞群内の意識発生プロセスに「侵入」すればよい。ではその「侵入」の方法は?

 薬物によって、記憶分野に「侵入」し、記憶を遮断する。記憶を消去する。次に、新たな回路を作る薬物を投入。この薬物の投入によって、一定の思考しかできない回路が形成される。マインドコントロール剤は、神経伝達物質であるセロトニンの再摂取を抑制するタイプの薬剤である。

 「自白剤」は、筋肉弛緩剤と同じ発想で、薬物によって意識中枢の正常な働きを麻痺させる。外部からの質問にそのまま答えてしまう。ということは、やはり人間の意識を形成する「回路」が脳内に存在する。外部からの薬物投入によって、意識がコントロールされることは、意識発生の源泉が、外界環境からの外界刺激であることを証明している。

 では蛋白質分子が解明されて、「優しいこころ発生物質」が発売されて、その「優しいこころを生ずる蛋白質分子を注射すれば、たとえばあまり「優しいこころ」がない人に「優しいこころ」が生ずるだろうか?

 ある程度「優しいこころ」が発生するかも知れないが、基本的には無理だと思われる。なぜなら、その薬物を吸収した人間の脳神経細胞は、それを単なる「異物」と捉えた場合、拒絶反応を起こし、腎臓の働きによって排出されるだけだ。やはり、個々の人間の脳神経細胞群と、「薬物」との適合性の問題があることは明白である。

 逆に言えば、やはりその人独自の脳神経細胞群から産出された蛋白質分子でなければ、正常に作用しない、適合性を持たないと思われる。つまり蛋白質分子はやはり、人間の脳神経細胞群の働きの中から産出され、その意識の発生源は、脳神経細胞群の働きに外部から刺激を与える「外界存在」の反映であるとする唯物論の正しさを示している。

 5.脳内物質 

 人間の喜怒哀楽の感情の働きには、脳内物質が作用するということが、最近の研究で明らかになっている。これは唯物論がかねてより主張してきた、人間の感情等が物質的基礎を持っているとの見解の正しさを証明する。

 脳内物質の一つとしてドーパミンがある。神経伝達物質であるドーパミンは、昔から快感神経伝達物質として知られている。すなわち人間の喜怒哀楽の感情の働きの元には、ドーパミンのような脳内物質が存在する。

 また最近は、「意志を持つ行動をとる場合や報酬に応答する反応も、ドーパミンが大脳皮質にある特定の神経端末から放出されることが引き金になる」(石浦章一著『脳内物質が心をつくる』羊土社、20ページ)ことが分かっている。

 またパーキンソン病にも、ドーパミンが関わっていることが明らかになっている。パーキンソン病は手指が震えたりして、自分が思うように行動できなくなる。このパーキンソン病にドーパミンが関わっていることから、脳内物質であるドーパミンが人間の意志の働きに、何らかの関与をしていることが分かる。人間の意志の働きに脳内物質が関与していることがさらに明らかになれば、意志の働きの先にある人間意識の働きの基礎には、やはり物質的なものが存在することが見えてくる。

 脳内物資としては人間の快感やヤル気のもととなるドーパミン、幸福感や満足感のもととなるセロトニン、怒りや注意の感情のもととなるノルアドレナリン、安堵感のもととなるβエンドルフィン、我慢や抑制に関わるGABA等がある。 このような脳内物質が産出されるもとには、たとえば懸案だった仕事がうまく片付いたとかいった外界環境の変化・刺激が外的に存在することは言うまでもない。

 6.意識発生の物質的基礎

 意識発生のメカニズムをもう一度考えてみよう。

 本を読んで「この本は面白い」とか「つまらない本だ」とかの意識が発生する。この意識は物質的に「これが意識ですよ」と捉えることができない。意識は物質ではない。まずこの点を明確にしておく。

 次に、この意識発生に至るメカニズムの解明である。意識発生メカニズムは、脳科学の分野においても未だ充分に解明されていない。否。充分に解明されていないというよりも、ほとんど解明されていないのが、現状である。このような状況にあっては、哲学的に意識発生メカニズムの仮説を立てるしかない。

 まず意識発生の単純な構造から考えてみよう。

 それはわれわれが日常的に感ずる暑さ、寒さである。この暑さ、寒さを感ずるメカニズムは、外界環境の変化をわれわれの感覚器官が読み取る。すなわち今日は暑いとか、今日は寒いとかの。感覚器官で読み取られた外界気温の変化は、電気信号化され脳に伝達される。次に脳内で、暑さや寒さに対する対策を取るように、具体的な行動が手足に伝達される。そこでわれわれはコートを着るとかの行動を行う。この過程において、暑い、寒いと感ずる意識が発生している。この意識は、本能的なものである。従って、脳も複雑な脳神経細胞群の働きを使うことなく、多分、条件反射的に暑さ、寒さの意識が発生する。

 逆に考えれば、このような単純な暑さ、寒さの意識発生のメカニズムにあっても、意識発生の元には、脳神経細胞群の働きが存在している。暑さ、寒さ意識の発生の元には、脳内において複雑ではないが、いずれにせよ脳神経細胞群の働きが存在している。

 さて次に、人間の喜怒哀楽の感情発生である。人間感情の発生の源泉には何があるか。現在の脳科学の研究では人間の喜怒哀楽の感情発生の元には、脳内物質と呼ばれる物質が存在する。ドーパミンは快、報酬、欲望に関係し、ノルアドレナリンは不安やストレスに関連し、セロトニンはドーパミンやノルアドレナリンの働きに抑制をかけている。

 このように人間の基本的な喜怒哀楽の感情発生の元には、脳内物質の働きが存在している。

 ところで問題はこれから先である。すなわち、比較的単純な喜怒哀楽の感情の発生から先に進んで、人間の複雑な意識の発生の元には何が存在するかである。

 この問題を解く鍵として言語のことを考えてみよう。なぜ、言語のことを取り上げるのか。それはわれわれの言語発生の元には、意識の発生があるからである。すなわち言語は意識が、現実に外に現れ出たものである。

 外界の美しい景色を見て、美しいという意識が発生したのち、または、ほぼ同時に「ああ、美しい」という言語が発せられる。つまり言語発生の基盤には、意識の発生がある。この意識の発生は脳神経細胞群の複雑な繋がり、ネットワークで生ずる。すなわち過去の「美しい景色」という脳の記憶領域への検証作業や、どういった言葉で眼前の美しい景色を表現するかに関わる脳の言語領域等の脳神経細胞群が、瞬時に複雑な働きを為して「ああ、美しい」という意識が発生し、それが言語となって発せられる。

 さて問題を先に進めなければならない。ではこの意識の発生の元には、脳内物質の働きが基礎としてあるのではないのかという問題提起がなされる。現在の脳科学研究では、意識発生の元には脳神経細胞群の繋がり、ネットワークの働きがあることまでは分かっている。しかしながらそれか先の意識発生の物質的なものの特定には、理論的にも実証的にも至っていない。

 予測されるのは、われわれの意識発生の基盤には、脳内物質的なものの発生があることである。なぜならわれわれの基本的な喜怒哀楽の感情発生の元には、脳内物質が存在することが解明されつつある。複雑なわれわれの意識発生の基盤にも、物質的なものが存在することが予測されるだけである。

 7.養老孟司著『唯脳論』批判

  まず養老孟司氏は唯脳論の定義について、その著『唯脳論』で次のように述べる。

 「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう」。まずこの出発点から吟味しなければならない。

 われわれ人間の諸活動を「脳という器官の法則性」として、まず養老孟司氏は捉える。果たしてこの定義は正しいか。

 まず第一に浮かぶ疑問は、われわれの活動すべてを脳の法則性に還元できるか否かの点である。確かに、たとえば手足を動かすのを命令するのも脳である。ものを考えるのも脳の働きである。養老孟司氏の観点に従えば、この出来事は、すべて脳が関与することになる。この見解は正解であろうか? 唯物論の観点から言えば、正解ではない。正解どころでなく、間違った観点を世間に拡大している。

 その間違った観点とは、われわれの脳が存在する環境条件を考察しないからである。われわれの脳がわれわれの行動のすべてを司るが、その司る源泉に考察の眼を向けなければならない。脳が生み出す意識の源泉は、幾度も言うように、外界環境存在なのである。外界環境からの刺激があって初めて、われわれの意識が発生する観点を忘れ去ってはならない。

 養老孟司氏は言う。「現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は典型的な情報器官だからである」と。この見解からは見事に反映論の見地が欠落しているのみならず、物質と意識との弁証法的な関係が抜け落ちていることは明白である。脳に拘泥するあまり、脳が発生した基盤、意識が発生する外界環境刺激存在をネグレクトしている。

 養老孟司氏は、この世の出来事すべてを脳の中に閉じ込めようとする。社会制度が発生し、それを人間自身の働きかけによって、改善してきたところの弁証法的な人間の努力過程を見ようとしない。すべてが脳の働きに収斂してしまう。

 養老猛司氏の「唯脳論」の最大の致命傷は、反映論の欠如である。人間の脳の働きの源泉となる、もととなる外界存在を完全にネグレクトしているからである。反映論の欠如は容易に、意識の一人歩きを招来する。

 さらに悪いことに養老孟司氏の「唯脳論」に輪をかけて、反映論を否定しようとするのが、「唯臓論」を唱える後藤仁敏氏である。後藤仁敏氏は「内臓の働きを大脳に支配させるのではなく、内臓の働きに神経系の機能を従わせる」(後藤仁敏著『唯臓論』風人社、4ページ)と強弁する。こうなれば、後藤仁敏氏が尊ぶ内臓の働きが宇宙のリズムと合致するとする。ここにあっては、養老孟司氏と同様にわれわれの意識の「外」にあって、しかも意識に反映される外界環境存在がネグレクトされ、外界存在とその中に生きる意識あるわれわれ人間との関係を説明できない袋小路に迷い込んでいる。

  参考文献

1.伊藤正男著著『脳と心を考える』紀伊國屋書店、1993年。

2.石浦章一著『脳内物質が心をつくる』羊土社、1997年。

3.伊藤正男著『脳の不思議』岩波書店、1998年。 

4.牧野広義著『現代唯物論の探求ーー理論と実践と価値ーー』文理閣、1998年。

5.有田秀穂著『セロトニン欠乏脳』日本放送出版協会、2003年。

6.池田昌昭著『反映と創造』創風社、2004年。