研 究 大 会

シンポジウム「『こころの時代』とポリティクス」 【趣意書】

 すでに1985年の施政方針演説のなかで、当時の中曽根首相は「国民が物の時代を越えて、心の時代へと前進しようとする熱意は、教育改革への強い期待となって現れている」と述べて、臨教審で戦後の総決算を行おうとしていた。90年代に入ってから、「いじめ」や「不登校」、「凶悪な」少年犯罪の増加に対処するために、カウンセリングや「心の教育」「心のケア」が声高に叫ばれるようになった。そして2002年4月には、小・中学校の児童・生徒全員に『心のノート』が全教育活動で取り組む道徳教育の学習財として配布され、学校・教員が『心のノート』を使用しているかどうかが点検されている。『心のノート』が文部科学省に対する忠誠度をはかる踏み絵とされようとしているといっても過言ではない。

***

 このように子どもが抱えている困難さがもっぱら子どもの「心のあり方」の問題として捉え返されている。そして、一方では「心の教育」を育むためと称して、道徳教育がカリキュラム全体に押し広げられるとともに、他方ではカウンセリング的手法や学校カウンセラーが学校教育に導入され、「心の自省」=感情の自己管理が求められている。ところがその一方では、「従来の『官』『民』という二分法では捉えきれない、新たな『公共』」概念が提起され、「互恵の精神に基づき我が国社会や国際社会が直面する様々な課題の解決に貢献しようとする、新しい『公共』の創造に主体的にかかわろうとする態度の育成」(中教審「青少年の奉仕活動・体験活動の推進方策等について」2002年7月29日)を奉仕活動を通じて行おうとしている。「国を愛する心」も「新しい『公共』を創造し、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」に必要な資質として求められ、その線上で教育基本法の改正が目指されている。

***

 こうした問題布置状況を見るとき、さしあたり次のようなことが大きくは検討課題として提起されていると考えられる。

 1つは、今日の子ども・青少年に見られる諸課題を「心の問題」へと回収させていくカウンセリング的手法がはらむ問題性や限界性を明らかにすることである。

 カウンセリングやセラピーが、人間が抱えている課題を個人の問題へと還元するだけでなく、そこに<カウンセラー‐クライエント>という新たな人間関係を作り出していくこと、ここに問題はないのかどうかを検討する必要があろう。<カウンセラー‐クライエント>という深い人間関係に潜むポリティクスを暴くことといってもいいであろう。しかしそれと同時に、<私>と社会を繋ぐ回路を形成するという営みも忘れてはならないだろう。

 2つ目は、公共性に関わる問題である。人間関係の問題を個人の問題へ還元するカウンセリング的手法と、個人を奉仕活動を通じて社会や国家へと繋ぎとめる「新たな『公共』」論に対抗して、どのような「公共性」論を構想することができるのかが問われている。言い換えれば、安易にナショナリズムに回収されない「公共性」論はどのように構想しうるのか、これが問われているといってもいいであろう。

***

 いずれにせよ、子ども・青年の抱えている課題を「私の問題」へと自閉しないような開かれた回路を模索するとともに、ナショナリズムに絡め取られない「公共性」のあり方が求められているのではないだろうか。

戻る