研 究 大 会

シンポジウムの記録

 第26回熊本大会のシンポジウムは、大会第1日の午後、総会に続いて行なわれ、豊泉周治さん(群馬大学)、浅野富美枝さん(宮城学院女子大学)、中山一樹さん(鹿児島県立短期大学)が報告し、池谷壽夫さん(日本福祉大学)、折出健二さん(愛知教育大学)が司会を務めた。

 報告に先立って、司会者から、「『こころの時代』とポリティクス」というテーマでシンポジウムを設定した趣意が説明され、「心のノート」に代表される、国家の側から個人の心へのアプローチにいかに対抗するかという問題提起が行なわれた。

 豊泉さんの報告は、「適応というポリティクス--「心の闇」と「多幸な」若者たち」と題して、「心の危機」が叫ばれる状況と一見裏腹な、「幸せ意識」の若者の間での高まりという現象を鍵に、「こころの時代」の分析を示した。「心の危機」は、80年代を通じて、企業社会システムが生活世界に浸透した結果生じた、文化的統合の危機としてとらえられる。「いまはとても幸せ、のんびり人生を楽しみたい」という若者たちの「多幸症」は、このような状況に対する、脱企業社会の方向での適応と特徴づけることができる。このような若者たちのあいだでは、家族や性的パートナーシップを軸とする従来の親密圏のあり方とも異なった、ケータイを通じた友達とのコミュニケーションに代表される個人の横のつながりが、特徴的な人間関係となる。豊泉さんは、こうした「多幸症」的なあり方に、縦型の階層的秩序に代わる社会関係の可能性を認めようとする。

 「ジェンダー・ポリティクスと「こころの時代」」と題する浅野さんの報告は、社会構造に基盤をもつ事態を「こころ」に押しつけて解消しようとする動きに含まれる問題は、「パーソナル・イズ・ポリティカル」という言葉でフェミニズムがとらえてきたものに他ならず、「こころの時代」はフェミニズムに対する攻撃と同時進行しているという認識から出発する。この観点から問題の焦点として浮かび上がるのは、親密圏のあり方である。この間の、男女共同参画の施策に対する右からの攻撃は、公的領域における男女の平等については黙認しながら、私的領域における性役割の問題に集中するというかたちをとっているが、現在のフェミニズムにとっては、私的領域における、いわば「愛」の名による抑圧を、人権や正義といった公的な領域の規範に接続し、政治の問題として現われさせることが課題である。男女共同参画に対するバックラッシュを「普通の」若者や女性が受け入れる土壌は、天皇制や企業社会と癒着した親密圏、とりわけ家族のあり方がもつ「こころ」にたいする暴力性によって培われていると浅野さんは指摘する。

 中山さんは、「社会化再構築時代の対抗--事実の気づき・表象による無化・身と認識の疎隔」と題して報告した。浅野さんの報告が、「多幸症」的な適応の方策が誰にでもとれるわけではないことを、親密圏における抑圧的な力の作用をより強く受けている女性の側から明らかにしたとすれば、中山さんの報告は、「多幸症」というかたちで適応できている、「イケている」子どもたちとならんで存在する、「イケてない」子どもたちの生きる道をどうするか、と問いかけるものである。「多幸症」でやっていける子どもたちはよいとして、適応に問題を抱えている子どもたちに、大人としてどうかかわり、彼らが安心して生きていける領域、水平ないし斜めの人間関係の構築を支援するかが課題として提起された。

 休憩の後、フロアーを交えた討論が行なわれた。発言が集中したのは、国家の側が進める「心の教育」に対抗する、民の側からの心や人格の教育は必要なのか、必要であるとすれば、それはどのようなものであるべきかということと、豊泉さんのいう「多幸症」は本物か、本物であるとしても、そこに何らかの積極的な可能性を見いだすことができるかということの二点であった。中山さんと浅野さんからは「心の教育」がアプローチしようとしている、心や人格の問題は確かにあり、カウンセリングを含めて、それに対するケアの必要性を認めた上で、その先に社会とのかかわりの再構築が考えられなければならないという立場が表明された。それに対して、豊泉さんは、「心の教育」に対抗するものは、「民主的な人格教育」ではなく、自我を他者との関係で規定し確立することであり、課題は意味のある他者の発見にあると指摘した。「多幸な」若者たちの「のんびり自分らしく生きる」というあり方は、意味のある他者の発見にはいたっていないとしても、企業社会の価値に代わる意味づくりの模索段階を 示している。豊泉さんは、ネットをつうじていきなり公共の場につながるような関係の作り方に、新たな可能性の期待を表明した。

(文責 伊勢俊彦)

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