研 究 大 会

公開講演会「水俣・川辺川・ハンセン病」の記録

 板井氏は、熊本の地に活動と思考の拠点をかまえる弁護士であり、水俣病訴訟弁護団(1980~)、川辺川利水訴訟弁護団(1996〜)、ハンセン病国家賠償訴訟(1998〜)西日本弁護団の重責をはたしている。板井氏の活動は、いずれの訴訟においても氏の生活の拠点、その地で生じた人権侵害の事実を国家賠償訴訟として国家の作為・無作為責任を問いただす次元において解決の方途を求めるという発想につらぬかれている。報告レジュメには、鍵となる命題がいくつもちりばめられている。そのうち3点を記録したい。

 1「水俣病を見たものの責任」---「気の遠くなるような範囲に広がっている水銀汚染の中で生活している人たちを見て、いったいどうしたらいいのかと考え込むばかりだった」と、公害の事実を知ってしまった弁護士の態度の取り方を語っている。そして板井氏の場合、それが水俣に法律事務所を構えさせた。

 2「まず事実を、もっと事実を、さらに事実を」---「農家の大半は、何も知らされていない人たちだ。何も知らされていない人たち(賛成とも反対とも言っていない人たち)を巻き込む運動を作らなければ、たたかいに勝つことはできない」。仲間に加える運動とは事実を伝える当事者意思形成に関与することだという主張である。一般に、事実を伝える仕事にかかわる者は、それが何らかの意味において仲間に加える運動だということを肝に銘じざるをえない。ではどういう仲間に加えようとしているのかという問いが立ち上がってくる。

 3「解決の姿を想像して闘いを組み立てる」---人権の確立は、裁判に勝つことに尽きるものではないという。「単に粘り強くたたかうだけでは人権の回復はできないであろう。多くの国民が自らの問題として理解して初めて人権として認められることになると思う」。

 この講演の直後、ハンセン病棟に隔離されていた人びとの投宿拒否をめぐる人権侵害事件が熊本の黒川温泉で生じた。人権回復という「解決の姿を想像する」ことからすれば、闘いは完了していないことを示している。この報せを読んで推測するに、板井氏にあっては今回のような事態はすでに闘いに組み込まれていたことであり、すでに闘いをすすめているのであろうかと考えた。

 なお当日配付された資料は、@『自由法曹団物語(上)』(日本評論社、2002年)、A板井「政治の責任と尊厳の回復」(『国際労働運動』第356号、2001.7)、B『牛島税理士訴訟物語』(花伝社、1998年)の抜粋である。

(文責 中山 一樹)

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