会 員 著 書 紹 介
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短評は会報『全国唯研ニューズレター』に掲載された記事を再掲したものです。
(更新日時:2016.09.27)
2016年 2015年 2014年 2013年 2012年 2011年 2010年
『寛容論』 
ヴォルテール 著/斉藤悦則 訳(光文社古典新訳文庫、2016年5月、1,060円+税)出版社ページへ
アダム=スミスにも衝撃をあたえたカラス事件をはじめ、西欧での宗教対立とそれにもとづく暴力的な制裁をふまえ、18世紀フランスの批判的文人ヴォルテールが「正義と真実と平和を願う気持ちのみ」に駆り立てられてものした著作の新訳。「哲学が多大の進歩をとげた時代」に、信仰を異にする者を処刑台に送り出す現実を目の当たりにした「善良なカトリック」ヴォルテールは、「宗教とは慈悲にみちたものなのか、それとも宗教とは野蛮なものなのか」を問う。同胞を憎み迫害する宗教心が跋扈する団体においては「幻想をいだく習慣が技術となり、システムと化し」、その現実について著者は「口にするのもおぞましいことだが、これを真実として語らねばならない。すなわち、迫害者、死刑執行人、人殺し、それはわれわれである」と、集団としての自己を批判の俎上にのぼす。「ひとつの町の住民全員を心から敬服させることよりも、全世界を武力で征服することのほうがよほど簡単だろう」としるす著者は、人々の信仰が一致すること、みなが「画一的な考え方」を身につけることが不可能であると知っている。寛容とは〈tolerance〉の訳語であるが〈tolerance〉には我慢・辛抱のほかに「信教の自由」という意味がある。それだから信仰が異なっても、同じ人間として尊重されるべきなのだ。「すべての人間を自分の兄弟と見なすべきだと言いたい。えっ、何だって、トルコ人も自分の兄弟なのか。中国人も、ユダヤ人も、シャム人も、われわれの兄弟なのか。そうだ、断固そのとおり」。これは過去の話にとどまらない。同じ著者の『カンディード』やミル『自由論』をふくめ、古典の飜訳に力を注いでいる訳者に敬意を表したい。
『わがままに生きる哲学 ソクラテスたちの人生相談』 
佐藤和夫・藤谷秀・渡部純 責任編集 多世代文化工房 著
(はるか書房、2016年4月、1,700円+税)紀伊國屋書店
本書は人生相談のスタイルを借りた、日常からの哲学書である。かつて『喫茶店のソクラテス』『公園通りのソクラテス』にハマったことのある人であれば少し懐かしく感じるであろうテイストで、高校生の進路から仕事や家族はじめ人間関係、老親の介護に至るまで、日常のさまざまな「悩みごと」が、専門用語抜きに深くていねいに論じられている。先ほど「スタイルを借りた」と書いたとおり、本書は人生相談を銘打ちながらも、しかし「これ」という答にはなかなかたどり着かない。むしろ本気の悩みには簡単な解決策などない、という(言われてみればしごく納得の行く)スタンスの表れであろう、中には回答者同士の見解が対立したり、相談者から追い討ち(!)をかけられたり、と予想外の展開も見せるセクションもあり、読み物としても格段に面白い。そしてこうも考えられる、ああも考えられる、とさまざまな観点から検討されていくうちに、こり固まっていた「悩みごと」が次第にほぐれていく感覚をおぼえることになる。その意味では、「一言で解決策を提示する」ような凡百の「人生相談」などよりも、「悩みごと」について深く語り合う本書の方がよほど人生「相談」の名にふさわしいのかもしれない。かつて『ソクラテス』シリーズにハマった頃の評者のように、言葉にしがたい思いを抱えつつ生きる青年たち(10代以下から70代以上まで年齢は問わない)に一読を勧めたい。
『世界は変えられるーーマルクス哲学への案内』 
牧野広義 著(学習の友社、2016年4月、1,380円+税)紀伊國屋書店
日本のみならず世界各地において「世界を変えよう」という呼びかけが高まっているなか、その元祖ともいうべきマルクスがいかにして世界を変えようとしたのかという点に多くの人々が関心を寄せるであろう。「マルクスの哲学への案内」と副題がつけられた本書では、マルクスが生涯をかけてくりひろげた理論的・思想的な〈世界の変革〉運動が、哲学的側面を中心として平明に叙述される。具体的には、マルクスの生涯、初期マルクスの4つの疎外概念、古い唯物論と新しい唯物論、人間と環境とのかかわり、フォイエルバッハの宗教論とマルクスの宗教論、意識と社会、労働、土台と上部構造、生産力と生産関係との矛盾、資本主義の発展、資本主義変革の物質的条件、階級闘争、自由・平等・協同、などの論点が順次とりあげられ、簡明に説かれる。環境が人間を変え、人間が環境を変えるという「環境の変革と人間の自己形成」の記述や、人間が感性を介して世界をとらえるとともに「五感の形成はいままでの全世界史の産物である」という相互作用をふくむ唯物論は、哲学の理論としても社会理論としても説得力をもちうる。著者には『「資本論」から哲学を学ぶ』(2007年)という著書があり、そこでは『資本論』の構成にそくして人間論や環境論がとりあげられているが、『世界は変えられる』では種々の著作にわたってマルクス理論全体の哲学的構図が描き出される。著者の誠実な人柄がにじみでてくるような本書によって、読者はマルクス哲学の概観が得られるであろう。
『おもしろ哲学 未華の冒険』 
山口通 著(本の泉社、2016年3月、1,200円+税) 出版社ページへ
山口氏は本書では白い杖をもって教室に現れる「徳川先生」として(著者は「教員生活前半18年を晴眼で、後半18年を全盲の視覚障害者として教育実践を行ってきた」中途視覚障害者である)、生徒である未華さんに「哲学入門」の講義を行う。そして知的で探究心に満ちた未華さんは積極的に先生に対話を求め、他の参加者も含めた双方向的やり取りのなかで様々な哲学的問題が取り扱われる。
少女との対話のなかで哲学的話題を扱うというと『ソフィーの世界』を思い起こす読者も多いと思われるが、奇をてらうことなく骨太な根本テーゼを次々に提示するという点で、両者には大きな共通性がある。客観的な世界を正確に映し出す認識こそが真理であるとする唯物論的な認識論、社会には原始共産制から封建制、資本主義社会を経て、真の自由と民主主義の確立された未来の社会へと向かう法則性が備わっているとする明確な歴史観が豊富な実例に則して展開される。
そしてその背景には哲学とは「世界観」に他ならず、「自然と社会をどう見るか、どうとらえるか、さらに自分自身は短い人生をどう生きるかを自らに問う学問」であるという揺るぎなき確信がある。書名ともなっている「おもしろさ」とは笑いを誘うものという意味ではなく、探究を進めれば進めるほど新たな視界が開けていく「おもしろさ」であり、そのことはまた著者が視力を失ったことによって、かえってそれまでの人生にはなかった新たな認識や出会いを獲得した「おもしろさ」ともつながっている。
『排除と抵抗の郊外 フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』 
森千香子 著(東京大学出版会、2016年3月、4,600円+税)出版社ページへ
本書は、フランスのエスニック・マイノリティの問題をその居住空間と結びつけ、郊外という都市空間をとおしてレイシズム、差別、排除の問題を考察したものである。著者自身による長年にわたるフィールドワークにもとづく、フランス〈移民〉研究の成果である。
第2章-5章では本書のキー概念である「郊外」と「移民」、その関係について整理され、「排除の空間」としての郊外の形成過程が分析される。
居住地域としての都市郊外は、日本あるいはアメリカなどでは中産階級の住宅の立ち並ぶ地域、というイメージだが、フランスの場合事情が異なる。19世紀後半のオスマンによるパリの近代化政策と郊外の工業化によって、貧しい労働者層が郊外の団地に移り住むことになった。そういった郊外の労働者集住地域では20世紀前半に共産党の市長も誕生し、「ローカル・コミュニズム」といわれる種々の施策が実施された。「赤い郊外」の形成である。そこでは都市のブルジョア文化に対する対抗文化としての労働者文化が発展した。これらの自治体では第二次大戦後、労働者のための住宅政策として大規模な団地が建設される。他方、戦後復興と高度成長期に旧植民地からの移民が国策として大量動員され、彼らが郊外の団地に集住することになる。
80年代以降、脱工業化の流れの中で、工業の衰退に伴い失業が増加し、貧困問題が噴出する。その中で移民の多く住む団地の〈荒廃〉が問題視され、都市政策として中産階級に力点を置いた郊外の再開発がすすめられる。それが旧住民である移民との分断を実質的に進め、移民を排除する方向にはたらく。
第6章ではそのような状況下、郊外のエスニック・マイノリティによるさまざまなかたちでの抵抗が描かれる。アソシエーション活動への参加やラップなど、その抵抗のありようが著者自身のフィールドワークの成果にもとづき具体的に示され分析される。
第7章では、それまでに示されたフランスの移民問題の複雑さをふまえ、2015年の風刺新聞社襲撃事件に関する考察がなされる。有名になった「私はシャルリ」という追悼デモのスローガンが示す多様性や差異を超えた団結の呼びかけは、これ以前の章でも問題にされてきたフランスの「共和国モデル」の問題性−フランス国民をあらゆる差異を超えて平等、一体のものとする普遍主義的立場での統合をめざすが、それが実際に存在する差異の問題を隠蔽し、多様性の承認をという主張に対して国民の一体性を破壊するものとして抑圧的に対する―と同質の問題性をはらんでいることが指摘され、事件の根にある問題が「文明の衝突」論への単純化で捉えきれない多重性を持つことが示される。
本書は、日本の報道にしばしばみられる表層的な図式による説明では決して触れられることのない、フランスの移民をめぐる複雑な現実について歴史的な経過をおさえ、繊細な概念化作業を施すとともに、フィールドワークによる「生の声」を活かして構成されている。フランスの地域研究という枠を超え、広く差異、排除の問題を深く考えるうえでたいへん参考となる好著である。
『仕事と就活の教養講座――生きのびるための働き方――』 
細谷実 編著/中西新太郎・小園弥生 著(白澤社、2016年3月、2,200円+税)出版社ページへ
本書は、大学生を対象にした仕事論・就活論であり、実際の講義をもとにつくられている。周知のように類書は多いが、その多くは経営者目線を内在化させがちである。本書が徹底するのは、働く人の視点の獲得であり、祖の視点から仕事や就活について学生が考えることができるように展開されている。
こうした視点から展開されるテーマは幅広く、「ブラック企業から自分を守るために」(第2講)、「ワーキング・プア化する正社員」(第3講)、「転職、キャリア、資格−自分にあった仕事を見つける、続けるには」(第5講)といった労働者にとって不可欠な知識や考え方はもちろんのこと、「仕事と生活の困難をカバーする仕組み」(第6講)、「日本人の働き方を見直す‐Another world is possible」(第7講)、「人生の中の仕事・社会の中の自分」(第13講)といったいわば生活者として必要な考え方についても重視されているのが特徴である。
叙述のされ方も、具体的な事例がふんだんに盛り込まれており、問題の所在や対処の技法がわかりやすい。そして、問題の社会的背景についても丁寧に説明がなされており、問題の解決が個人的なものではなく、社会的になされなければならないこともわかるつくりになっている。
『現代史の中の安倍政権 憲法・戦争法をめぐる攻防』
渡辺治 著(かもがわ出版、2016年2月、1,800円+税)出版社ページへ
渡辺治氏が安倍政権を論じた著書は本書で5冊目になるという。渡辺氏は、政治家安倍晋三は論じるに値するだけの存在ではない旨、後書きで述べているが、それにもかかわらず、安倍政権は、氏による現代日本政治分析の内で最も多く言及される政権となった。そうなったのは、言うまでもなく、安倍政権が「軍事大国化と新自由主義改革」という「二つの事業」の強行を担う政権となったからである。
本書は、2014年夏から2015年秋に至る、集団的自衛権の容認と戦争法制定に突き進んだ安倍政権の動向と、これに反対する全国的運動の拡大とを視野に収め、軍事大国化という安倍政権の目標がどこまでどのように果たされたか、その限界、制約はどこにあるかが中心的に論じられる。いつもながら、その筆致は明快で鋭い。戦争法案の強行後もなお、明文改憲による目指す安倍政権の姿勢には、集団的自衛権容認が限定的にならざるをえなかった事情があると本書は言う。戦争法反対運動の広がりがそうした制約を課したことはたしかだが、だからこそ安倍政権は明文改憲に執着する。「(安倍首相は)参院選の結果次第では、明文改憲に向けて挑戦することをあきらめていない」という指摘は、2016年秋の政治的焦点を正確に言い当てている。
『現代社会理論の変貌 せめぎ合う公共圏』
日暮雅夫・尾場瀬一郎・市井吉興 編著(ミネルヴァ書房、2016年1月、5,500円+税)出版社ページへ
本書は立命館大学産業社会学部の創設50周年を記念した叢書(全5巻)のうちの1巻である。とはいえ、もし読者がそのタイトルや第一印象から、「記念論文集」にありがちな総花的で無難な構成を想像すると、良い意味で裏切られるだろう。全巻構成からしてメディア批判や新自由主義下の労働状況における排除の問題、現代東アジアの社会意識(排外意識や自殺、ジェンダー問題!)など、産業社会学部らしい「エッジの効いた」内容がならぶなかで、本書はちょうど叢書全体の理論部門という位置づけになろうか。その本書も、本会の日暮会員によるナンシー・フレイザーへのインタビューをはじめ、日暮・市井・尾場瀬・百木各会員による魅力的な論考を収録し、現代の批判理論を主題とした大変読み応えのある論集になっている。各会員以外による論考も、カルチュラル・スタディーズやハーバーマスのポスト・セキュラー論など、全国唯研の会員ならば大いに関心をそそられるところであろう。評者個人としては、自分の専門からやや遠いこともあって、「統制と抵抗の場としてのスポーツ」を論じた市井会員の論考や、カルチュラル・スタディーズの観点から「運動としてのフォーク・ソング」を論じた粟谷氏の論考など、一見「ソフトな」主題に関する批判的な分析が印象に残った。入門書的な読みやすさではないが、ぜひ一読をお勧めしたい。
『危機に対峙する思考』 
平子友長・景井充・佐山圭司・鈴木宗徳・橋本直人 編著
赤石憲昭・阿部里加・荒川敏彦・磯直樹・大河内泰樹・上杉敬子・菊谷和宏・小谷英生・
佐々木隆治・杉本隆司・白井亜希子・高安啓介・田中秀生・筒井淳也・中村美智太郎・
名和賢美・福島知己・水野邦彦・前田泰樹・南孝典・村田憲郎 著
(梓出版社、2016年1月、6,200円+税)出版社ページへ
本書は、本学会会員である平子友長氏の退職記念論文集である。だが、通例の退職記念論文集とは異なる緊張感を本書に見て取れるとしたら、それはやはり本書が東日本大震災を受けて企画されたからだろう。内容的には現象学、啓蒙主義など抽象的な論文から現代の新自由主義批判のような具体的なものまで多種多様である。だがどの論文も、陰に陽にさまざまな角度から、東日本大震災が露呈させた「危機」に関わろうとしていることがうかがえる。たとえば、第1部で社会科学方法論や認識論哲学が主題とされるのも、「震災以降、真に信ずるに足る知識とは何か」という切実な問いの故であるという。しかもこうした危機意識は、啓蒙思想にさかのぼって合理主義を再検討する第2部、近現代における批判意識の兆候をたどる第3部、現代日本の民主主義を問い直す第4部にも(強度の差はあれ)感じることができる。
執筆者は平子氏のほかに複数の唯研会員を含め26人の中堅・若手の研究者であり、それだけに水準にややバラつきがあることは否めない。とはいえ、哲学・社会学・思想史・現代社会論と多岐にわたる論考が、それでも危機意識を共有できるのは、震災以降4年にわたる共同研究の成果であろう。これらの分野に関心のある方には一読をお勧めしたい。
『ホイスコーレ 上・下(グルントヴィ哲学・教育・学芸論集3)』
N.F.S.グルントヴィ 著/小池直人 訳(風媒社、2014年2月/2015年12月、各2,200円+税)
併せて700頁を超えるこの論集は、近年その社会のあり方が日本でも注目を集めているデンマーク、その社会の基礎とを作った19世紀の思想家グルントヴィのテキストを日本語で紹介する労作である。目次を概観したかぎりでは、上巻ではデンマークの国民性、北欧という連携といった主題を扱うテキストが、下巻では表題となっている「ホイスコーレ」のあり方を特に主題したテキストが収められている。とはいえ、それが上下として一続きのものとしてまとめられているのにはそれだけの理由がある。ホイスコーレは英語の直訳ではハイスクール、実際のところは大学に相当するものということになるが、グルントヴィが構想するホイスコーレは、たんなる学問・教育の最高機関にとどまるものではないではない(それは学問的ホイスコーレといわれる)。各地の民衆生活、市民生活に根差し、陶冶をつうじて民衆の生に奉仕するような民衆的ホイスコーレ(フォルケリ・ホイスコーレ)の意義と必要性をグルントヴィは説く。デンマーク、北欧の国民性が問題にされるのは、その地域の特徴に根差したホイスコーレを構想することと一体なのである。グルントヴィの民衆にしっかりと根を下ろした啓蒙の場としてのホイスコーレ構想は、現在の日本の教育のあるべき姿を考えるうえでもたいへん示唆的である。
『神話・狂気・哄笑――ドイツ観念論における主体性』
マルクス・ガブリエル/スラヴォイ・ジジェク 著
大河内泰樹・斎藤幸平監訳/飯泉佑介・池松辰夫・岡崎佑香・岡崎龍訳
(堀之内出版、2015年11月、3,500+税)出版社ページへ
本書はドイツ哲学界若手の旗手であり、『なぜ世界は存在しないのか?』(未邦訳)がベスト・セラーになり、〈新しい実在論〉の唱道者としてヨーロッパでは哲学界を超えてた知名度を持つようになったマルクス・ガブリエルと、すでに数々の邦訳で知られるスロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの共著である。目下のところジジェクの名の方がよく知られているだろうが、むしろ本書はガブリエルの本邦初の訳書として意義がある。彼らが試みているのはドイツ観念論のリヴァイヴァイル、というよりアクチュアライズである。特に批判の対象とされているのは、自然科学的なアプローチこそが世界を正しくとらえているといった自然主義である。自然科学的な世界把握が唯一真正な世界把握であるような議論に対して、自然科学的な世界把握は、たとえば数ある〈領域〉のひとつに過ぎず主体との相関の中で可能となるものであり、数ある領域すべてを包括する〈世界〉は存在しない―そういった主体との関係で領域が立ち上がる論理をガブリエルらはドイツ観念論の中に読み取ろうとする。
『社会学の起源――創始者の対話』
竹内真澄 著(本の泉社、2015年10月、1,300円+税)出版社ページへ
「はじめに」を額面どおり受け取るなら、本書はコント、スペンサー、マルクスの三者による対話という形式を取った「多少風変わりな社会学史のテキスト」ではある。だが、その形式や「テキスト」という言葉から入門書的な平易さを連想するならば、読者は良い意味で裏切られるだろう。実際のところ、本書には本格的な理論書に勝るとも劣らない刺激的な論考がいくつも盛り込まれているのだ。たとえば、マルクスによるコント・スペンサーへの言及を手がかりとした両者の補完関係の指摘、あるいは実に端的な社会学の本質規定(詳細は読んでのお楽しみ)、また対話形式にありがちな予定調和に終わらずにコントとスペンサーがマルクスに反撃する部分などは、著者の洞察を感じさせる。その意味で、本書での「対話」形式は、平易さのための単なる方便ではなく、まさに「思考実験」なのだろう。
こうした特長からすれば、本書は初学者向けの入門書というよりは、たとえば社会学専攻の上級生を対象とした演習のテキスト、あるいは院生による読書会などに好適であろう。その際には、社会科学における人称=記述の主体のあり方を論じた、同著者の『物語としての社会科学』との併読も勧めたい。
最後に個人的な願望を記してよいならば、第4部で論じられる20世紀社会学への展望を軸に、続編が書かれたらさぞ面白いのではないだろうか。おそらくマルクスも含めて三人では到底すまないバトルロイヤルになるだろう。
『多元的共生社会が未来を開く』
尾関周二 著(農林統計出版、2015年10月、2,000円+税)版元ドットコム
「共生」という概念が日本独特のものであり、その意味を忠実に表現する外国語の単語が存在しないことはよく知られている。尾関氏は、むしろそのような「共生」概念の独自性を生かし、この用語に人間?自然、人間?人間の双方の関係性において、支配?隷属や一方的な利用・操作・搾取を許さないような未来におけるあるべき姿を示すキータームとしての意味を与えようとする。
狩猟採取社会から農業社会への移行において、またさらには科学技術の発展を基礎とする工業社会への移行において、人間は自然への埋没から抜け出て自然と距離を置き、対象としての自然を意識的に利用し、操作するようになると同時に、労働を組織し所有権を確立し商品交換を促進するために、国家権力や市場・資本蓄積を強化・拡大し、人間の人間に対する支配や搾取を推し進めてきた。このような過程が、他方で人間の自然的制約からの解放、人類の真の平等を求める偉大な宗教・哲学思想の登場、市民的自由の獲得等の積極的側面を伴ってきたことは確かであるが、福島原発の事故やグローバル化した資本主義の下での新自由主義的搾取の深化を見るとき、人間?自然、人間?人間間の関係を抜本的に改革することが求められているのもまた明らかである。
尾関氏は、このような改革実現のために、小規模な自立的社会システムとそのネットワーク化の上に立つ「<農>を基礎とした農工共生社会」の構想を展開し、「共生」を理念とする新たな連帯の形を提起している。本書はこれまでの尾関氏の仕事を壮大な人類史的展望の下に総括した一般向けの著作となっており、広く読まれ、議論されるべきものである。
『イケアとスウェーデン――福祉国家イメージの文化史』
サーラ・クリストフェッション 著/太田美幸 訳(新評論、2015年10月、2,800円+税)出版社ページへ
本書は、スウェーデンの若手の部類に属するデザイン研究家による、世界企業イケアのイメージ戦略の研究である。本書で著者は、イケアが世界最大の家具企業として展開する過程で、物語とイメージづくり、創業者I・カンプラードの独創性と革新性などを最大限に活用したことを多面的に明らかにしている。こうした企業のイメージ戦略の重要性はよく知られたものであるが、イケアの場合、ポイントはスウェーデン出身の企業として、シンプルで機能的で、お高く留まらず、伝統文化を継承し、質的で庶民的な北欧デザインの質を重視した商品生産を行い、また労働環境においても、権威的関係を抑制し、フラットで共同的でディースントな状況を維持したことなど、豊かさ、平等、公正、環境重視のスウェーデン福祉国家の価値を体現したイメージに心掛けたことが例証される。また反対に、スウェーデンもイケアやボルボなどがつくりあげたイメージの依って、福祉国家の肯定的側面を世界に向けて発信してきたともいう。本書はこうした企業と福祉国家価値との相互作用が、北欧資本主義の「強さ?」になっていることを、デザイン分析の側面から様々に分析している。ここには、問題点ももちろん示唆されているが、本書は近年いわれる北欧型福祉国家は国際競争に強いといった議論を考えるひとつのヒントを提供していると思う。
『人が人のなかで生きてゆくこと 社会をひらく「ケア」の視点から』 
中西新太郎 著(はるか書房、2015年8月、1,700円+税)紀伊國屋書店
長年にわたる著者の青年研究によって培われた知見に基づき、危機的な状況に瀕している現代日本の社会関係をどのように組み変えることが可能なのかを問うた一冊。他者と関わりを持とうとする営みが、ともすれば暴力的な支配関係に陥り、他方では孤立と分断とを生み出しているという矛盾した状況を、具体例に即しながら丹念に読みといた上で、社会を壊すことなく、安定した関係を作りうるような他者に対する向き合い方を、「ケア」という言葉でつかまえようとしている。そこで言われる「ケア」の意味は、通常使われるよりもずっと広く、人と人とが豊かな生を育むために必要なあらゆる人間関係の根底にあるものとして、ひいては真に民主的な社会を保障するための基盤という含意まで持っており、つまるところ、そうした「ケア」を社会に埋め込んでいくための方法を探るのが本書の最大の目的だと言ってよい。認識はシビアで先行きは決して明るいものではないが、自分にはどうすることもできない他者が存在せざるえないことの必然性を根拠に、社会関係を組み変えるための資源はあちこちに転がっていると示唆する本書は、意外なほど希望に満ちている。
『聖書論T――妬みの神と哀れみの神』
『聖書論U――聖書批判史考 ニーチェ、
フロイト、ユング、オットー、西田幾多郎』
清真人 著(藤原書店、各2015年8月、4,100円+税/3,200円+税)
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本書は著者による文字通りの『聖書論』全二冊の大著である。その構成はT巻「妬みと憐みの神」、U巻は「聖書批判史考」のサブタイトルが付され、旧約および新約及聖書の分析的考察と近代の宗教批判研究論からなる聖書の著者独自の読解が提示されている。この著者の壮大な構想はヴェーバー、ニーチェ、フロイト、ユング、西田らの宗教論批判を駆使しながら取り出されたものである。もちろんこの短評で、全体を遺漏なく紹介することなどできるはずもないが、著者の理解図式は大枠で示せるかも入れない。著者は聖書の神のなかに、妬みの神と憐みの神の矛盾した性格が記述されており、それをパウロが統合して、端緒から堕罪、そして終末における救済という終末論を構成したとする。著者はこの図式を、ニーチェらを援用しながら徹底解体し、ヤハウエに現れるような妬みと憎しみの神にたいしてイエスに具現される愛と憐みの神人を分離し、それを禁欲的現世否定と永遠の生の希求ではなく、深い現世の肯定とそこにおける幸福な生の探求の象徴として理解しようとしている。著者はこの思想がイエスと仏教的神話的ならしめるとも考えているようで、ニーチェやフロイト、ユング、オットーらの聖書研究のみならず、西田幾多郎のとくに晩年の場所的世界観のなかに、それと通ずるものを見出している。だが、著者によれば、そこには仏教的なもののキリスト教論理にたいする緊張感も必要であり、そこに実存的な生への覚醒を含む救済の論理が可能であったとしているようだ。膨大な著書のゆえに、こうした評者の特徴づけが正鵠を得ているかどうかははなはだ心もとないが、数千年に及ぶ膨大な研究誌を独自な視点から整理し、推理小説のようにスリリングな仕方で提示する著者の「腕力」には敬服するしかない。思想が希薄化しているかに思える現代において、こうした聖書の批判的研究が必要であることは疑いない。
『共感の人間学・序説 ――概念と思想史』
山崎広光 著(晃洋書房、2015年7月、4,800円+税)出版社ページへ
理知的にみえる対話においても、相手の承認と尊重を芽生えさせ、相手が端的に〈人間であること〉を立ちあらわせるもの、もしくは、相手の人間性を自分のことのように感じて自分を相手とつなげようとすることを、共感と呼ぶ。これは「議論するばかりで感ずることのない人は私たちの心を動かすことはできない」というJ=M.ギュイヨーをも想起させる見方であるが、このように共感を位置づけ、概念的な限定や分類をこえて、他者とかかわる人間のありようを浮き彫りにする共感論が、本書で指向される。
学術的世界において共感概念はシンパシーとエンパシーとに分けて論じられることが多かったが、本書では、エンパシーをシンパシーに統合し、「気づかい」をふくむ共感の包括的な論理を構築することが意図される。デカルト、スピノザ、ヒューム、スミス、ワロン、ヘア、ホフマンら多数の理論家が俎上にのぼされるほか、援助・尊重・受容・医療倫理などと共感とのかかわりが本書で論点となるが、『ハックルベリ・フィンの冒険』がしばしば引き合いに出されたり、酒井直樹の提起する共感の共同体・自己憐憫の共同体が論及されたりするところにも、著者の理論的感性が生かされている。
わが唯物論はこのような共感論を体内にふくむものでなければなるまい。「序説」と銘打たれている本書につづく〈共感の人間学〉の上梓が切に望まれる。
『石田雄にきく日本の社会科学と言葉』
竹内真澄 著(本の泉社、2015年5月、1400円+税)出版社ページへ
本書は、戦前から戦後にかけての政治的変遷を目の当たりにし、しかも丸山眞男に師事して「戦後民主主義の理念を内包した社会科学的視座」から日本社会を見てきた石田雄氏に、著者が聞き取りを行い、戦後70年目の節目に「余人をもって代えられない証言を得られると期待」して編まれたものである(3頁)。
石田氏は、3・11福島第一原発事故が起こって以降、安保と原発が聖域化してしまった構図について、明晰な分析を展開されている。石田氏は、その理由の一端として社会科学者にも責任があったと喝破する。それは丸山のいう「現実主義の陥穽」である。積み上がってきた事実を、人間が生み出したものとしてではなく、所与のものとして受容し、そこから論を展開しようとする姿勢。それは、市民運動を展開する場合なら許容されるが、社会科学にそのような姿勢は許されない。例としてあげられている「平和基本法」構想の際の自衛隊と憲法との関係やアジア女性基金に即していえば、どうして、どういう意図が作用して自衛隊が発足したのか、憲法に照らして合憲なのか、なぜ国は元慰安婦にたいする責任を取ろうとしないのかという一次元的な背景にまで迫り、その意味を問い続けなければならない。石田氏はそう強調する。そうしてこそ聖域の問題点は明らかになってゆくが、それに風穴を開ける実践は、すでに地方においてなされているのに、社会科学のほうが正直追い付いていないという。石田氏のこれらの指摘は、評者の問題関心からみて金言であると同時に、研究者のはしくれとしてドキリとさせられる箴言でもある。本書は、それに留まらず、石田氏の生い立ちなどから戦前、戦後史の貴重なエピソードを知ることもできる。ぜひ一読をお勧めしたい。
『新MEGAと『ドイツ・イデオロギー』の現代的探究 廣松版からオンライン版へ』
大村泉・渋谷正・窪俊一 編著(八朔社、2015年4月、3500円+税)版元ドットコム
本書は、マルクス/エンゲルスの遺稿『ドイツ・イデオロギー』の編集問題に最終的解決を与えるべく、日中韓研究者11名に、ドイツ研究者3名を加え、全14章の論考を収めている。唯物論研究協会からは、マルクス理論の精緻な分析を積み重ねてきた平子友長、渡辺憲正の両氏が、国際共同研究の中心メンバーとして参加し、日本における『ドイツ・イデオロギー』編集の新機軸として評価されてきた廣松版の「根本問題」を、原テクストとの詳細な比較にもとづいてあきらかにしている。(渡辺・第6章)また、ドイツ語論文により、新MEGA版『ドイツ・イデオロギー』編集における廣松版の過大評価を夙に指摘してきた平子は、新MEGA版『ドイツ・イデオロギー』編集の方向性と考え方について大村、渋谷とともに提起を行っている。(1章・4章)門外漢には一見迂遠と感じられるかもしれない編集問題であるが、対象とされている『ドイツ・イデオロギー』第1章「フォイエルバッハ」は、マルクス主義思想の生成、性格を論じる上で欠かすことのできないテクストであり、これを正確に理解する礎石が日本の研究者たちの長期にわたる努力によって築かれたことを歓びたい。本書に示された根拠と方針によって2016年公表予定とされる「オンライン版ドイツ・イデオロギー」が、今後の『ドイツ・イデオロギー』研究の起点となることはまちがいないであろう。
『水田洋 社会思想史と社会科学のあいだ――近代個人主義を未来に貫く』
竹内真澄 編(晃洋書房、2015年3月、1,000円+税)出版社ページへ
本書は編者による社会思想史研究者、水田洋へのインタヴューからなる。水田は1919年生まれ、ホッブブスやスミスなどイギリス近代の思想史研究で著名であるが、現在95歳を越えてもなお、社会運動や平和運動にかかわって発言を続けている活動的知識人でもある。編者はこの著書で彼の学問形成と変遷を中心に丁寧に下調べをしたインタヴューを記録しており、本書自身が戦後思想の貴重な証言となっている。編者の問題意識からは現在が1930年代の再現のようであり、戦後の学問の遺産を発掘し、継承したいとした、水田にたいする同志的意識が感じられる。
さて、水田は本書で、戦前のジャワでの軍属調査委員の体験、戦前から戦後に継承される近代思想の研究とその翻訳のいきさつを語り、とくにそこで近代的個人主義とマルクスとの継承関係を重視している。彼はいわゆる市民社会派マルクス論者なのだが、その視点からイギリス近代思想の日本への導入の経緯、三木清戸坂潤の影響、丸山真男や内田義彦等との関係など、通例表には出ない舞台裏が率直に語られており、本書を興味深い読み物にしている。近代個人主義の評価と継承という点で、水田と編者は一致しているが、面白いのはポストモダン思想をともに高く評価しない点である。編者によれば水田には近代を評価し、資本主義を批判する複眼的視点があり、現代の思想はそうした複眼の重点配分の変化だという。こうしたはっきりした立場は戦後思想への確信の表明であるが、そのことは、読者が自分自身を見つめ直すきっかけを与えてくれ、本書を有益なものたらしめている。
『いま、なぜ食の思想か――豊食・飽食・崩食の時代』
河上睦子 著(社会評論社、2015年1月、2,300円+税)紀伊國屋書店
いま、和食がブームである。一家で和食を囲めば、心も健康になり家族の団欒も進む。そうしたイメージが先行している。しかし、和食とは何かと問われると、答えられる人はごくわずかだろう。著者によれば、それは、和食の定義があいまいだからである。オムライスやラーメンなどの日本発のメニューも含まれるのか。一汁三菜のスタイルを指すのか。では、一汁三菜のスタイルは、いったいいつから始まったのか。探れば探るほど、わからなくなってくる。
その理由のひとつとして、食がナショナリズムを補完するためのイデオロギー装置として利用されやすい側面があるからだと著者は指摘する。本書で分析されているように、歴史的には、ナチスにおいても、食は、人びとにナチズムのイデオロギーを注入するための装置とされた。食が、国を支える健康な身体と精神の健康を養うものとされたのだ。それゆえ、台所の現場までもが国家統制の対象となった。だが、著者が強調するように、食にせよ、健康にせよ、人間一人ひとりが判断すべき問題である。上からの指導によって左右されるべき問題ではないのだ。
それだけではない。固有の食文化を強調する風潮は、経済のグローバル化が進展したいま、食材があらゆる国や地域から届けられている実態や、その背後で強制労働や環境破壊が引き起こされているという現実への感度を鈍くしてしまうという問題もある。ナチスの例を考えれば、現在の日本の政治状況下で和食が強調されているのは、また、その背後にある問題が看過されてしまうのは、偶然ではないように思えてくる。
こうした問題点も交えつつ、食がどのようにとらえられてきたのか、西洋思想、環境思想におけるベジタリアニズム、宮澤賢治の思想などから多角的に考察が深められている、必読の一冊である。
『生活から問う科学・技術――疎外された工業化からもう一つの工業化へ』
岩佐茂 著(東洋書店、2015年4月、2,200円+税)出版社ページへ
「疎外された工業化からもう一つの工業化へ」との副題を持つ本書は、「科学と人間シリーズ」のうちの1冊であり、現代の科学・技術を〈生活とは何か〉という視点から批判的に考察すると同時に、それに対するオルタナティブについて具体的な展望を示している。
第1部では、あるべき科学・技術のあり方を吟味するために指針として、まず、生活と立脚した価値論が定立される。新カント派的な価値論では事実認識と価値判断が峻厳に二分されてしまう。新カント派との対抗意識の中でロシア・マルクス主義においては価値論が論じられず、不在であった。著者は認識・実践の前提・媒介としての価値の意義を重視し、生活に根差した価値論を中心に人間の営みを捉え返す哲学の方向に舵を切る(生存論的転回)。その転回の先駆がマルクスである。
〈資本の論理〉は生活に根差す価値と対立する方向に生活そのものを駆り立てる。大量生産、大量消費、大量廃棄に生活は呑みこまれ、利便性や効率性といった価値が一面的に肥大化され、安全性、快適性という他の価値はないがしろにされてきた。この〈資本の論理〉への対抗軸が生活・生存をベースとする思想である。
つづいて、科学・技術の価値的性格について考察される。科学の価値中立性という従来の問題設定の不十分さを指摘したうえで、科学的真理と区別される〈制度としての科学〉、そして科学を営む科学者は一定の価値意識の影響を受ける。いわゆる反科学主義のように科学の発見する真理までも否定するのではなく、科学の実際の営みにはたらく価値意識を批判的に吟味すること、また科学者自身のモラルの重要性が説かれる。
第2部では、技術、工業化のあり方が考察される。資本の論理によった疎外された工業化は環境破壊を不可避的に引き起こしてきた。環境保護運動は、それに対する生活の論理からの異議申し立てとして捉えられる。そして生活の論理に立脚したオルタナティブとして、もう一つの工業化―中間技術、内発的発展論、ソフトエネルギーパス―などが紹介される。
しっかりとした哲学的骨格をもちながら、現在の科学・技術の問題点、それを超える方向性など具体的に論じられた好著である。
『学力格差是正策の国際比較』
志水宏吉・山田哲也 編(岩波書店、2015年4月、4,200円+税)出版社ページへ
本書では、日米英豪仏独の六カ国の学力格差の状況とその是正策が、それぞれの社会の史的文脈の違いに留意しつつ取り押さえられ、かつ比較検討されている。いずれの国でも、濃淡の差はあれ、新自由主義的改革が実施されている。教育分野でも然りだが、日本以外の国々では、同時に<新自由主義的改革の帰結としての「学力格差」>を問題とし、その背景としての経済・社会的格差等をにらみながら是正策を講じることが教育改革の柱の一つともなっている。一方、日本の場合、各国と同様に経済・社会的格差が拡大しているものの、さしたる学力格差是正策が講じられているわけではないにもかかわらず、学力格差は縮小傾向にある。本書はその謎の解明に迫っている。
「学力格差」について論じる際、新自由主義に批判的な言説は、「学力格差」の背景にある経済・社会的格差や文化的ギャップまでをも視野に入れて考察した上で、格差是正策について検討する。そこからは、単なる教育政策ではなく、それを含み込んだ社会政策が導き出される。
こうした取り組み自体は妥当である。しかし、それは半面で、期せずして、同化主義の一亜種と化して新自由主義を追認し、その浸透に一役買ってしまうことになりかねないという陥穽に陥る危険性を孕んでいる。
ここで問われているのは、「学力」そのもののとらえ返しである−−学力格差をめぐる枢要な論点であるこの点についても本書は鋭角的に論じている。
なお、職業社会が他国と比して明瞭なドイツの事例に関する検討では、「『学力』と社会的分業」をどう受けとめるかということが重要な論点であることが示唆されている。
『知っていますか? 日本の戦争』
久保田貢 著(新日本出版社、2015年4月、1,600円+税)出版社ページへ
近代日本史にかんして荒んだ発言が依然として繰り返される昨今、若い人々と接する機会の多い私たちも各々の場で私たち日本人の思いこみや先入観を匡してゆかなければならない。けれども私たちにも近代日本史をきちんと説明しうるだけの知見が欠けていることが間々ある。コンパクトな体裁と平明な記述、豊富な図表からなる本書は、私たちをふくめ現代日本人が忘却したり風化させたりしている近代史を平明に把握するのに裨益するところ大なる書籍である。日本国内の戦争被害に始まり、開戦の責任、「アジア・太平洋戦争」の意味、日本の加害、「吉田証言」をめぐる言論、戦後補償、などが歴史的説得力をもって取りあげられ、また、これらにかんする日本の政治家や街中での暴言がいかに不当であるかが述べられる。北海道朱鞠内から沖縄県座間味島まで、著者みずから撮影したと思われる写真が豊富に掲載されていることも、読者にはありがたい。巻末で呈示される「学習運動」に私たちもなんらかの仕方でかかわりたいものである。
『共生の現代的探求――生あるものは共にある』
竹内貞雄・重本直利 編著(晃洋書房、2015年3月、2,700円)出版社ページへ
1979年の養護学校義務制度化を巡る論争の中では少数意見だった共生教育論から発した日本の共生論であるが、その名を冠した学会や書籍刊行の隆盛にふれると隔世の感がある。もとより、共棲とも接続して自然・人間・社会全般の望ましい在り様を目指す共生論の現代的意義は大きい。しかも本書には共生論の類書にはない数多くの特徴があり、自然的共生を踏まえつつも、「共生とは、つまるところ、各自が労働処分権を奪還した協業以外のなにものでもない」と喝破して、企業の社会との共生、教育における共生、科学における共生、共生労働を論じるだけでなく、更に踏み込んで共生経営や共生マネジメントにまで至る幅広い領域を扱って共同的包容と差異的包容を論じている。
編者を含め著者の多くが全国唯研会員である本書は、グランドセオリーとしてのコミュニズムの刷新をも示唆しているのは確かであり、現代社会の変革に強い関心をもたれているであろう全国唯研会員諸氏全員に読んで頂きたい好著である。特に副題にも示されている存在命題としての共生と当為命題としての共生との関連如何を、また生あるものの内部の共生と外部の共生との関連如何を熟考する上では、本書は最適の文献だと思われる。
『社会を説明する――批判的実在論による社会科学論』
バース・ダナマーク他 著 / 佐藤春吉 監訳(ナカニシヤ出版、2015年3月、3,200円+税)出版社ページへ
本書はスウェーデンの社会科学者たちのグループによる批判的実在論の立場からの社会科学論である。批判的実在論は昨年末に亡くなった英国の哲学者R.バスカーを理論的支柱として展開されてきた哲学的主張であるが、その基本的な特徴は、科学的認識を我々が経験のなかに見出す規則性の単なる受動的な記録に還元する「実証主義」的科学観を批判し、そのような表層的経験の次元を越えて、客観的実在の側に内在し出来事を因果的に生み出す深層的メカニズムを解明することこそが科学の役割であると考えるところにある。このようなメカニズムの解明のためには、演繹と帰納のみから構成される「ポパー=ヘンペル的説明モデル」とは異なるアブダクション、リトロダクション(これらはもともとパースの用語)と呼ばれる、ちょうど事件現場に残された証拠や目撃者の証言から犯人の意図や犯行のプロセスといったメカニズムを想定し、それに沿って捜査を行う名探偵に求められるような推論が必要であるとされ、そのためには抽象化された概念に基づく一般法則と具体的事象を絶えず関係づけるという作業が重要な意味をもつことになる。
本書は、社会科学の分野でこのような批判的実在論の立場から研究を進めようとする学生、院生を含む研究者に向けて、その哲学的前提についての導入的解説に続き、「説明」と「理解」、実証主義と解釈学、方法論的個人主義と集団主義といったこの分野で論争となってきた問題点に即して、このような誤った二者択一に囚われることなく、我々が解明しようとする事象の背後にあるメカニズムに到達するために必要とされるあらゆる方法を駆使する「批判的方法論的多元主義」を採用するよう提唱する。「批判的実在論は方法論ではない」というこのような主張が、ファイアアーベントの『方法への挑戦』における理論的立場と響き合う面があることは興味深い。
バスカー自身の著書も式部信氏のご尽力によって、その主だったものを日本語で読むことができるようになったが、その晦渋な表現はいかんともしがたく、一般読者にはややハードルが高いように思われる。その点、本書は平易な表現と豊富な具体例を使って批判的実在論とそれに基づく研究の進め方についての親切な解説書となっており、広く多くの読者に読まれるべき本であると考える。
『労働と思想』 
市野川容孝・渋谷望 編著
明石秀人・伊豫谷登士翁・植村邦彦・大河内泰樹・大貫隆史・河野真太郎・斎藤幸平・
佐々木隆治・清水知子・鈴木宗徳・隅田聡一郎・永野潤・西亮太・松本卓也・溝口大助・
本橋哲也・前川真行・宮ア裕助・山本圭 著(堀之内出版、2015年1月、3,780円(税込))出版社ページへ
近年盛り上がりを見せている青年層の新しい労働運動。この新しい運動の中で、様々な実践的問題と取り組んでいる雑誌『POSSE』をご存知の方も多いだろう。本書は、複数の全国唯研会員による寄稿も含め、『POSSE』の連載記事「労働と思想」をまとめたものである。この連載では「労働」という切り口からさまざまな思想家(に限らない)が論じられているのだが、その多様さは目を見張らずにはいられない。何しろシェイクスピアから始まり、ヘーゲルやマルクスなどの古典、さらにラカンやデリダ、そしてスピヴァクやジジェク、ホネットなど、全部で実に22人が論じられているのである。その意味では、もちろんロックやヘーゲル、マルクスなど、労働について論じる際には外せない古典に関する論考もさることながら、通常は「労働」というテーマから論じられることの少ない思想家を扱った論考が興味深い。例えば、「未完のプロセスとしての労働者文化」というウィリアムズの章の一節や、ベックの個人化論と現代の労働問題との関連の指摘などが評者個人としては印象に残った。雑誌連載だけあって読みやすい短文でありながら、労働に関する新たな思考を刺激してくれる好著である。
『天は人の下に人を造る――「福沢諭吉」神話を超えて』
杉田聡 著(インパクト出版会、2015年1月、2,000円+税)出版社ページへ
福沢諭吉に関しては従来からもその官民調和論にみえる国権と民権の和解、脱亜論等が批判の対象となってきたが、全体としては明治維新以降、日本の近代化の方向を示した重要な思想家であるとの肯定的な評価は揺るがせられることはなかった。福沢を「典型的な市民自由主義」とみる丸山眞男の評価に代表されるような、肯定的な福沢像を根底的に覆そうとする。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」という『学問のすすめ』の有名な一句は結局のところ、たんなる引用にすぎず、実際、福沢の思想の内実は、国権の拡張を第一の目的し、そのためには不平等を容認、強化しようする国権主義者であったと断ずる。表題はそのことを端的に示している。
人権について福沢は、結局のところ参政権として理解し、自由権を人間固有の権利として保障する必要を認めない(第3章)。政府の存在理由は人民の権利の保障ではなく、国権拡張の手段であり、そのための強大な政府権力が肯定される。その狭い人権理解から福沢は明治憲法を絶賛し、弾圧事件にも口をつぐんだ。
天皇制については、福沢はその神話的正当化の不合理性を洞察しつつも、国権拡張のために有効とみて最大限に利用しようとした(第4章)。教育勅語にみられる儒教主義道徳についても、福沢はそれを国民統合のためには利用価値があると考えていた。
国権の伸張としての戦争を福沢は積極的に支持した(第5章)。福沢の脱亜論は、従来から知られているが、本書では、それが、西洋列強の側に立ち、中国を植民地化しようとする「割亜」論であったこと、朝鮮の内発的な変革の可能性を否定し、日本による保護国化を目指したこと、その他、現代のヘイトスピーチさながらの福沢の中国人・朝鮮人への差別的言辞など、福沢の亜細亜蔑視と国権拡張=侵略肯定の姿勢が、従来の通説の域を超えて示されている。
さらに近代化の中で小作人や労働者の陥った窮状について、福沢は問題意識を持たず、むしろ日本の労働者の低賃金を国際競争力にとって有利な条件として捉えていた(第6章)。また、伝統的な性役割分業を福沢は当然視し、伝統的な女らしさを固守していた(第7章)。
専門外の人間として、本書の正当性をにわかに評価することはできないが、ある種の留保なしではすまなかった従来の福沢評価に比べれば、本書の提示する福沢像はむしろ一貫している、といった印象を持つ。本書は、今後の福沢研究のみならず、日本の近代思想の捉え方全般について大きな問題を提起しているといえる。
『図説 経済の論点』
柴田努・新井大輔・森原康仁 編著(旬報社、2014年12月、1,500円+税)
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日本経済や世界経済が大きく変動する現代において、経済の初学者が経済の諸論点を理解することは容易ではない。そうしたなか、本書は、19人の若手研究者たちが、大学生や一般人が「経済のいま」を理解できるように作成した、現代経済の入門書となっている。「経済活動のグローバリゼーション」、「『金融化』する現代資本主義」、「新自由主義と日本経済」という3領域が設定され、現代の日本経済や世界経済を考えるうえで欠かすことができないテーマ(39項目・3コラム)が各4頁で分かりやすく図説されている。
たとえば、「グローバルな生産ネットワークの統治構造」の説明に際しては、「『iPodの利益』は誰のものか」という問いが立てられることによって、AppleやiPodなど読み手にとって身近で興味を持ちやすい具体的な事例が扱われる。iPodの小売価格299ドルのうち、実際に部品製造を行っている日韓台の取り分は33ドル、一方、製造や組み立てもしないAppleの取り分は80ドル、という具体的な数字が図を通して示されることで、感覚的な刺激を伴いながら、読者はグローバルな生産ネットワークの存在と統治構造を理解することができるのである。
大学生向けのテキストとしてとても使いやすい本であると同時に、経済分野以外の会員にもぜひ一読をお勧めしたい本である。
『ドイツ医療倫理学の最前線――人格の性と人間の死』
ミヒャエル・クヴァンテ 著 / 高田純 監訳 盛永審一郎・長島隆・村松聡・後藤弘志訳
(リベルタス出版、2014年12月、5,500円+税)出版社ページへ
本書の著者クヴァンテは、承認論研究で有名なジープの下でヘーゲル哲学研究から出発し、分析哲学、マルクス、そして本書のような応用倫理学と、幅広く活躍しているドイツの哲学者である。最近までドイツ哲学会の会長も務めていた。彼の著作は続々と日本語に翻訳されつつあるが、本書はそのなかでも著者の2002年に提出された教授資格論文である。
アメリカにおけるバイオエシックスが主に商業的傾向を後追いする傾向があるのに対し、ドイツの生命倫理学は哲学的な原理原則から考察を始めるとはよく言われることである。しかし本書によれば、そうしたドイツの生命倫理学においても、そこで重要となるはずの「人格の同一性」についてこれまで統一的な見解が存在しなかった。筆者はこの「人格の同一性」に関する道徳形而上学的な議論から出発し、そこから現代の応用倫理学の問題を検討する。
このように、形而上学(メタ理論)から応用倫理学まで複合的な内容を扱うことによって本書が難解なものであることは否定できない。しかし、そのような抽象度の異なった層を往還する議論こそが、むしろ現代の社会においてますます求められていると言っていいだろう。アメリカのバイオエシックスにも増して、我が国では倫理学の知見が政策の正当性調達に動員されるか、あるいはそうでなければ全く無視をされているような現状がある。本書の議論は、そうした日本の状況において、哲学の社会における役割を再検討するという意味でも、大きな示唆を与えることだろう。
『フィヒテ知識学の全容』
長澤邦彦・入江幸夫 編著(晃洋書房、2014年12月、4,860円(税込))
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フィヒテ研究は、この30年の間、後期研究に大きくシフトしてきたといっていいだろう。フィヒテは彼の知識学を何度となく書き直し、生涯をかけてこれに適った叙述形式を練り上げつづけた。また、それは叙述形式だけでなく、彼の哲学そのものの深化を示すものであり、94年『全知識学の基礎』とは異なった、新たな「知識学」、あらたなフィヒテ像がそこに見出されつつある。もはや、フィヒテはシェリングやヘーゲルの先駆者であるだけではなく、同時代の、あるいは場合によってはかれらよりも哲学を先に進めた哲学者であることが論じられるに至っている。
そうした新たなフィヒテ像を浮き彫りにするのに、日本人の研究者は大きな貢献を果たしてきたといってよいだろう。晢書房より1995年から刊行されている日本語版フィヒテ全集もまもなく完成を迎えようとしている。本書は、フィヒテ没後200年を機に日本のフィヒテ研究者が総力を結集し、そうした新しい研究成果を踏まえたフィヒテ「知識学」の全貌を明らかにしようとするものである。内容はそれぞれの年度の「知識学」の紹介(第2部)にとどまらず、その応用(第3部)も射程に収めているほか、ドイツ観念論研究の泰斗ヘンリッヒ氏を交えた鼎談(第1部)および我が国の代表的フィヒテ研究者6名による座談会の記録(第4部)は大変示唆に富んでいる。本書は、今後フィヒテ研究を志そうとするものの簡便な手引きとなると同時に必読書となるであろう。
『貧困の哲学』(上・下) 
プルードン 著 / 斉藤悦則 訳
(平凡社ライブラリー、上:2014年10月、
1,800円+税/下:2014年11月、2,000円+税)出版社ページへ
本来『経済の矛盾の体系、あるいは、貧困の哲学』と題された本書が刊行された翌年にこれを批判すべく上梓されたのが、いわずと知れたマルクス『哲学の貧困』である。『哲学の貧困』は「プルードンにたいする親切な理解をもたらすものではない」(河野健二)し、「プルードン理解としては一面的で、以後のプルードン研究に有害な効果を与えることとなった」(白井厚)ともいわれてきた。訳者の斉藤悦則氏によれば、マルクスはプルードン批判において「叩くべき相手の主張の断片を意図的に抜き出して(あるいはねじまげて)‥‥徹底的に叩く。一方、プルードンの手法は逆で、相手の言説をすなおに展開し、相手の論理そのものによって相手の言説を覆す」ものである。私たちはこの飜訳によって『貧困の哲学』の全貌をとらえられるようになった。
本書では「政治経済学はその原理も業績も正しくない。一方、社会主義の価値はただそのことを確証したという一点以外にない」、「政治経済学の正体は盗みと貧困の組織化にすぎない」、「政治経済学はエゴイズムの賞賛に向かい、社会主義は共同体の賛美に向かう」、「もたざる者には死を。これが政治経済学の必然的で決定的な結論である」というように政治経済学ないし経済学が手きびしく批判される。「あらゆる事実のうちで、もっとも確かで恒常的で疑う余地のない事実といえば、それは人間におけるものごとの認識は段階的で、順序だてて、反省をへてなされるということ、一言でいえば、認識は経験によるということである。したがって、経験によって裏打ちされない理論、すなわち表出において恒常性も連鎖もない理論は、まさにそのことによって科学的な性格を欠く」という一節も、プルードンの考察態度を示すものとして印象的である。私たちは、プルードン研究において40年以上の蓄積を有する斉藤氏という最適な訳者を得たのである。
『自然主義と宗教の間 哲学論集』
ユルゲン・ハーバーマス 著 / 庄司信・日暮雅夫・池田成一・福山髟v 訳
(法政大学出版局、2014年10月、4,800円+税)出版社ページへ
タイトルの『自然主義と宗教の間』が示すのは、両者を批判しつつ救済する哲学に他ならない。長く「宗教音痴」を自認してきたハーバーマスは本論集でも「ポスト形而上学」の立場から、宗教の規範的・意味付与的世界像として機能は失効したとみなし、個々の世界像の正当性・妥当性を巡る議論に係わることも拒否する。しかし本書で彼は、カントの最高善促進の義務への固執を引き合いに、宗教的伝承の中に、より良い世界への展望、ユートピア的衝動を認め、この核心的要素への敬意を討議的思考の中に組み入れようとする。彼の自然主義への批判も、行為の創始者としての主体を自然的因果性に還元し無化する「固い」主義に対してや、主体の他者による事前決定を可能にする出生前の遺伝子介入への警戒に力点が置かれており、そこには良き世界の建築可能性(とそれを支える討議における諸主体と)を否定する「敗北主義」への抵抗が貫かれている。本書はその可能性を担保するが故に対立する両者に「暫定的妥協」と「寛容」を要請するのだが、そうした態度は第一世代から最良の遺産に基づいているのである。
『ヘイト・スピーチの法的研究』
金尚均 編、森千夏子・安田浩一他著(法律文化社、2014年9月、2,800円+税)出版社ページへ
日本においても問題化するヘイト・スピーチへの対応を考えるうえで、ヘイト・スピーチに対する法的規制の是非は重要な論点となる。本書は、社会学、ジャーナリズム、法学に関わる7人の論者が、このテーマを論ずる際におさえるべき観点や事実を、それぞれの立場から記した良書である。
ヘイト・スピーチの克服のためには、「上からのレイシズム」や「見えにくいレイシズム」まで含めて包括的にレイシズムをとらえ、それをもとに対応を図らなければならないとする、森千香子氏の提起。安田浩一氏や中村一成氏らの取材によって、明らかにされるヘイト・スピーチの加害、そして深刻な被害の実態。こうした観点や事実が前もって提示されるがゆえに、憲法学や刑法学からなされるヘイト・スピーチへの法的規制の議論が、具体的説得性と緊張感をもって読者の前に展開される。それゆえに、編者金尚均氏による「ヘイト・スピーチは表現の自由の範疇にはなく、ただ、法的に規制されていないだけである」という結びの言葉は、読者に重く響くものとなっている。
『ニクラス・ルーマン入門――社会システム理論とは何か』
クリスティアン・ボルフ著/庄司信訳(新泉社、2014年4月、2,500円+税)出版社ページへ
難解をもって知られるルーマン理論を読み解く上で、これまでもっぱら頼みの綱とされてきたのはクニールとナセヒによる優れた入門書(1993年、新泉社より邦訳)であるが、2011年に原書が刊行された本書は、これを凌ぐ名著である。もちろん、システムと環境の差異、オートポイエーシス、コミュニケーション、区別と観察といった術語によってルーマンが成し遂げたラディカルな理論的刷新については、類書とかわらず手ぎわよく説明されている。しかし本書の最大の特徴は、近代社会における機能システムの分化という彼の説明を丁寧にたどった上で、ルーマンが「中心なき社会」に価値的にコミットし、政治システムの境界を超えて拡大する福祉国家による市民の統制を、彼が批判的に語っていたことを暴いてみせた点にある(やはりルーマンはネオリベだった!)。しかしその一方で、経済システムにすべてを還元する経済決定論を拒否しながらも、複数のシステムから同時に「排除」された人々の存在について素朴に問題提起する一面をもっていたことも指摘されている。さらに、末尾で指摘されるルーマン理論の一連の「盲点」はいずれも頷けるものばかりで、彼の理論を吟味する上で有用な視点を与えてくれる。ルーマンを正しく批判したいと思う者は、ハーバーマスを読む前にまずこちらに目を通すことをお薦めしたい。
『経済・環境・スポーツの正義を考える』
尼寺義弘・牧野広義・藤井政則編著(文理閣、2014年3月、3500円+税)出版社ページへ
本書は、3人の筆者が、経済、環境、スポーツの各側面から、正義のあり方について問い直す構成となっている。ロールズの正義論は国民国家(立憲主義国家)の枠を前提としており、ながらくグローバルな不正義への視座にかけているのではないかと批判されてきた。本書第1部における経済の正義の考察もまた、そのようなロールズの正義論の不備、とりわけ経済の論理をきちんと踏まえたうえでの社会の民主化が必要である点を、A.スミス、マルクス、ヘーゲルの理論から明らかにしていく。その基本視座にあるのは、経済的な富をもたらす根幹としての人びとの労働であり、その搾取をゆるす資本主義のあり方であり、その民主化の方途である。第2部の経済の正義は、主に環境的正義に注目が当てられ、原発における不正義や科学者の社会的責任の問題が提起されていく。いずれにもみられるのは、金融資本主義下におけるグローバルな富の偏在や、資源的、地理的、空間的な限界などから、資本主義経済の転換期にあるといわれている現在において重要となる、世界的なレベルでの社会的公正をどう実現していけばよいのかという理論的な示唆である。第3部のスポーツの正義、海外研究者の講演録からなる第4部も興味深く、お勧めの一冊である。
『沖縄の保育・子育て問題』
浅井春夫・吉葉研司編著(明石書店、2014年3月、2,300円+税)出版社ページへ
沖縄が癒しの地としてイメージ化されるとき、「癒す側」に位置づけられる存在(おばあ、女性、子ども…)が現在直面している種々の困難についてつたえられる機会は少ない。子どもの成長、子育て家庭の抱える困難についてもそうである。全11章からなる本書は、現在の沖縄に生じている子育てと子育て家庭の諸問題を、保育を中心に網羅した貴重な1冊。吉葉研司氏らの研究者、医師、保育・子育て支援現場の実践家、ジャーナリストと、子育て問題に関心を寄せる人々による要を得た報告が、沖縄における子育ての「いま」をつたえる。ともすれば牧歌的な生活風景を想像しがちな子育ての実態は、実はきびしいことがよくわかる。沖縄版「子ども白書」の刊行など、子どもたちの現実をリアルにとらえる仕事が近年の沖縄ですすんでいるが、本書も、そうした流れのなかで編まれた価値ある業績だろう。子どもたちが平和に生きる権利を求める著者たちの思いが凝縮された好著。
『なぜ、市場化に違和感をいだくのか?――市場の「内」と「外」のせめぎあい』
高橋弦・竹内章郎編著(晃洋書房、2014年2月、2400円+税)出版社ページへ
新自由主義的政策のグローバルな展開がはじまって以降、資本主義は、自らの存立基盤としての市場の「内側」に、地域コミュニティ、教育、親密圏といった「外部」までをも取り込む形で、至上命題である資本蓄積のための再生産構造を持続させてきた。世界的には、人びとのいのちの危機に直結する、伝統的な農業用の種苗から日常の飲料水に至るまで、市場の「内部」に組み入れ延命を図ってきた。その結果、人びとの精神的態度や国家機構のあり方までもが、市場原理主義にからめとられようとしている。本書は、こうした現状に至った経緯を分析し、市場の「外部」をみつめなおす考察から、オルタナティブな社会のあり方を提起しようとする好著である。
K.ポラニーの議論をもとに、市場原理主義の徹底された社会になるか、共同体が経済のあり方を規制していく社会を選ぶかの岐路にあると指摘する1・2章から分析ははじまる。3・4章では、条件の良い海外での生産を持続させ、日本国内での生産をその調整弁とする多国籍企業のあり方が考察される。5・6章では、そうした新自由主義的施策の昂進と政治の経緯とが、実は密接に重なっている点が説得的に展開される。7・8章では、そうした政治・経済状況下で展開される「能力」論にひそむ問題点が指摘される。9・10章では、社会権的領域は本来市場の領域に組み込まれえないという指摘が、マルクスの議論から説得的に展開され、その領域から社会保障のあり方を見直していくべきだと提起される。
新自由主義的な政策の深まりによる閉塞状況を理論的に打開したい読者にとって、お勧めの一冊である。
『体育・スポーツ領野の探求』
岡田猛著(不昧堂出版、2014年1月、税込3,456円)
オリンピック、サッカー・ワールドカップと、現代世界の巨大なスポーツ・イベントは、我々の生活全般に深くかかわる社会現象、文化現象であり、分析を要する多くの課題をふくんでいる。「体育・スポーツと人間的自然」「体育・スポーツと社会論」「スポーツ論と体育」の3章に構成された本書は、スポーツ現象を、その原理的次元(身体論等)に立ち返って検討し、次に、社会現象としてのスポーツを、具体的競技をふくめ論じ、最後に、体育分野でスポーツ把握について、現場の実践を踏まえた分析を加えている。「「より速く、より高く、より強く」は普遍か」といったタイトルが示すように、スポーツ論、体育論で常識のように流布されてきた主張、運動にたいする批判的な視点が本書にはつらぬかれている。著者の多年にわたる探求をまとめた本書で取り上げられるトピックは多彩で、そのことがまた、本書の魅力をかたちづくっている。真摯な研究の書でありながら、同時に、スポーツへの愛を感じさせる滋味が行間からにじみ出る。
『諭吉の愉快と漱石の憂鬱』
竹内真澄著(花伝社、2013年11月、1,700円+税)出版社ページへ
「機を見て敏」な賢さをそなえた諭吉は、常に時代の先を読み、「愉快」にそして快活に行動し、発言する。幕臣としての欧米視察を通じて近代文明にのみ未来があることを確信すると、維新後は佐幕派的身分制秩序をあっさり投げ捨てて私権的個人主義の立場から個人間の競争に基づく活力ある階級社会を積極的に肯定し、階級間の貧富の差を社会政策によって緩和する道よりも、超越した権威としての天皇制による「人心収攬」機能に期待し、帝国主義的競争には富国強兵路線を採用して近隣諸国を見捨て、勝ち組の一員として生き残ろうとする。
これに対して漱石は、社会の近代化が旧い封建的秩序から人びとを解放する一方で、権力と金の力で人々を支配する階級の登場を許すことに目を向け、マルクスを含む社会主義者たちの思想にも学びながら、真の意味での独立した個人としての「自己本位」の境地に達するためには、このような階級的支配を排す所まで行かなければならないとの認識を持っていた。このような漱石にとって、近代は「正しい人でありさへすれば、必ず神経衰弱になる」矛盾に満ちた「憂鬱」なものであらざるをえない。
諭吉の「愉快」に無批判に同調し、漱石の「憂鬱」を忘れることによって、我々は超国家主義の下での無謀な戦争に突き進み、そしてまたその十分な反省もないままにフクシマの悲劇にまで至ってしまったのではないかという著者の問いは、テレビで「愉快」に経済成長と美しい国日本について語る首相の顔を見るときわめて説得的である。
評者としては、諭吉の文明論が「近代の超克論」や国学的な国史学とも親和的であるという著者の主張には賛成できないが、平田清明氏の「社会主義は個体的所有の再建である」という主張を漱石の中に見出そうとする試みとしても読める本書を面白く読み、多くを学ぶことができた。
『近代日本思想論V 丸山眞男と戦後思想』
吉田傑俊著(大月書店、2013年11月、2,800円+税出版社ページへ
全国唯研会員のあいだでは近年、西洋の膨張主義、マルクスの思想、明治期日本の思想、敗戦後日本の思想など、いわゆる近代思想を見直す共同的作業が断続的におこなわれている。戦後日本思想については唯物論系理論家のほかに日高六郎・竹内好・鶴見俊輔・藤田省三らがしばしば取りあげられるが、そのさい避けて通れないのが丸山眞男であろう。丸山については著作集17巻のほかに講義録7冊・座談9冊など多数の文献が刊行されており、その全貌の把握は並大抵でないが、本書『丸山眞男と戦後思想』は丸山の長期間にわたる論文にそって個々に「追考」がなされており、丸山をひとつの軸として戦後思想の諸論点を考察しようとする読者に裨益するところ大である。それは、天皇制思想とマルクス主義とに対峙する近代主義という軸といえるであろう。本書は著者の〈近代日本思想論〉三部作の掉尾を飾る著作であるとともに、著者の35年をこえる日本思想研究の蓄積のうえに成り立つものであり、その奥行きの深さが伝わってくる。
『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む MEGA第W部門の編集と所収ノートの研究』
大谷禎之介・平子友長編(桜井書店、2013年10月、4,700円+税別)出版社ページへ
世界的にみて高水準にあるといわれる日本のマルクス研究は、マルクスの精密な文献的研究に裏づけられており、それは日本MEGA編集委員会が組織されていることからも窺える。本書は、MEGA第W部門の編集に携わっている研究者たちが第W部門の第17巻・第18巻・第19巻とかかわる1860年代のマルクス抜粋ノートをもとにおこなった研究成果の集成である。マルクスが重要視した歴史学者マウラーにかんする2編の論考や、マルクスの地代論・化学論・農業論・日本研究にかんする各論考、そして「1861-63年草稿」追補にもとづく『資本論』形成史展望の論考など、従来にない論点が開陳されている。また、MEGAそのものの解説と第W部門の紹介がしるされた「はしがき」は、専門家でない読者にとってたいへんありがたい叙述である。マルクスの貪欲なまでの読書ぶりにただ恐れ入るとともに、本書におさめられた緻密な諸研究に敬意を表したい。
『21世紀の思想的課題――転換期の価値意識』
岩佐茂・金泰明編(国際書院、2013年10月、6,000円+税)出版社ページへ
本書は、2011年9月16・17日に北京大学国際会議場にて開催された日中哲学シンポジウムの記録である。日中哲学シンポジウムは大阪経済法科大学アジア太平洋研究センターと北京大学哲学系の共催として開催され、1988年、1991年、1998年に続く4回目の開催であった。
本書は、このシンポジウムの構成に則って、「近代哲学」「マルクス哲学」「現代哲学」に対応する三つの部分からなり、中国側から10名、日本側から13名の全23名の論考がまとめられている。
第T部「個と共同性(共生)??近代哲学の観点から」では、竹田青嗣氏、山脇直司氏、金泰明氏といった日本で著名な哲学者がヘーゲル、ホッブズ、カント、現象学といった近代哲学を踏まえながら、中国側からは李徳順氏、呉向東氏らが主に価値論から、個人と社会という伝統的な問題に取りくんでいる。第U部「人間と自然・社会??マルクス哲学の観点から」には、岩佐茂氏、高田純氏、渡辺憲正氏といった唯研でもよく知られたメンバーが、郭建寧氏、王東氏らとともにマルクスの現代性を日中双方からあぶり出している。第V部「近代化と多様性―現代における歴史的反省」では、グローバル化が主に扱われ、この問題が日中両方の思想的課題となっていることが分かる。さらに武者小路公秀氏は3.11以降の「反原発」運動から現代の思想的課題を提起している。
評者も、報告者の一人としてこのシンポジウムに参加し、本書に執筆する恩恵に浴した。シンポジウムでは中国の研究者たちと交流し、特に若手の研究者の活気に大いに刺激を受けたほか、普段はあまり接点のない著名な日本の哲学者と交流する機会を持てたことも収穫であった。政治的には冷え込んでいる日中関係ではあるが、今後も同様の交流と企画が継続し、哲学的な交流が今後もさらに熱いものとなっていくことを期待したい。この論集は中国語でも出版される予定である。
『福沢諭吉と多元的「市民社会」論―女性・家族・「人間交際」』
福吉勝男著(世界思想社、2013年9月、3800円+税)出版社ページへ
フィヒテやヘーゲルなどドイツ古典哲学のとりわけ社会思想や福祉思想を研究してきた著者が、ヘーゲル市民社会論を念頭に、それとの対照を意識しつつ、福沢諭吉の市民社会観を再構成した著作。福沢自身は市民社会という言葉を用いていないが、『中津留別の書』『学問のすゝめ』『文明論之概略』など福沢の著作にあらわれた論理をひきだし、近代日本の主体形成の企図、基本的人間観、市民倫理にかんする福沢の思想がていねいに描かれる。また、男尊女卑にたいする批判に彩られた福沢の家族観・女性観が浮き彫りにされていることも特徴的である。
著者もいうとおり、福沢諭吉は市民的自由主義者であるか、侵略的絶対主義者であるか、評価が分かれる。侵略的絶対主義者という評価の根拠となる『時事新報』について著者はいまだ分析をおこなっていないため、いずれの評価が適切であるかを著者は保留しているが、本書で主要に検討された『文明論之概略』などの時期にかぎっては、福沢を市民的自由主義者とみなすのが妥当ではないかと著者はしるしている。
本書での市民社会論枠組みをふまえ、福沢の天皇論・国会論・行政論をあきらかにすることが次なる課題であると著者はいう。そのうえで福沢の思想を現代の民主主義論・社会思想と切り結ぶことを著者はねらっている。
日本の近代思想を全体的に、そして批判的に洗いなおす機運が高まっている今日、その形成期に大きな役割を果たした福沢諭吉をきちんと把握し評価するうえで、本書は裨益するところ大といえる。著者の続編におおいに期待するとともに、日本近代思想にかんする唯研会員のゆるやかな共同的研究がいとなまれてゆくことを望みたい。
『コスモポリタニズム 自由と変革の地理学』
デヴィッド・ハーヴェイ著/大屋定晴・森田成也・中村好孝・岩崎明子訳
(作品社、2013年8月、3,800円+税)出版社ページへ
新自由主義グローバリゼーションが進行する世界の「空間」(場所・領域)に焦点を当て、「地理学的批判理論」を体系的に展開した本書は、ハーヴェイ理論の軌跡に関心を持つ者のみならず、新自由主義グローバリゼーションがもたらした世界大の時空変容(生きられる空間の変動)とこれをめぐる思想的対抗をつかもうとするすべての人々に必読の書である。500頁にも及ぶ論述を的確に紹介することは能力に余るが、カントから始まって、フーコー、ハイデガー、ウォルツァー、ヌスバウム…と、取り上げられる思想家を数え上げれば、空間(場所)論という主題で普通に想像される議論とは異なることがわかるだろう。「新自由主義コスモポリタニズム」への、またこれに対立するかにみえて実際には共犯関係にある「ナショナリズム」への、徹底した批判精神に満ちた思想の書である。巻末に付された大屋定晴氏の解説(「ハーヴェイによる地理学的批判理論の構築」)は解説の域をはるかに超え(57頁!)、ハーヴェイ思想をハーヴェイと同等の思想的緊張を持って鋭利に分析した労作である。じっくりと時間をかけとりくむ価値のある良書が翻訳されたことを喜びたい。
『ペダゴジーの社会学 バーンスティン理論とその射程』
久富善之・小澤浩明・山田哲也・松田洋介編(学文社、2013年6月、税込3,024円)出版社ページへ
およそ250頁と大著ではないが、内容はずしりと重く充実した書物である。教育学分野の研究者にはよく知られたバジル・バーンスティンの理論をめぐり、13人がいずれも力の入った論考を寄せている。まず、バーンスティンの教育(ペダゴジー)理論について鋭く立ち入った検討がなされている点に、本書の大きな利点が挙げられる。バーンスティンそのものをきちんと読んでみようという気にさせるし、特論をふくめ5人の著者たちの理解が深いこともよくわかる。
タイトルに「射程」とあるように、本書はバーンスティンのたんなる解説に終わらず、そこから引き出した方法的視点を用い、教育の社会的諸位相(職業教育、学校知識、共同性把握、「方言講演」)やトピック(不登校、自傷、居場所支援、日本語学習)について、それぞれに興味深い論及がなされている。これが本書のもう一つの特徴である。著名な海外の理論を援用するという次元にとどまらず、ことがらの内容とバーンスティン理論とが真摯につきあわせられている点に好感が持てる。本書全体をつうじて、目の前にある現実を受けとめようとする緊張感と問題意識とに満ちていることがよくつたわってくる。多人数の論文集にみられがちな分散性は微塵も感じられず、むしろ主題への集中度がきわだつ。読みがいのある好著だ。
『「買い物難民」をなくせ!――消える商店街、孤立する高齢者』
杉田聡著(中公新書ラクレ、2013年5月、840円+税)出版社ページへ
本書は、1980年頃から顕著となった流通分野の規制緩和と車の大衆化(モータリゼーション)によって中小規模の商店が街から次々と姿を消した結果、日常の買い物すら困難となった高齢者を中心とした買い物難民の現状を詳述した前著(『買物難民――もうひとつの高齢者問題』)の姉妹編として書かれたものであり、困難な状況にある買い物難民の現状を変えるために必要な視座を中心に論じられている。この際注目すべきは、資本の集積に収斂されない、多様な価値にもとづく街の再建が買い物難民問題を解く鍵だとされている点である。多くの青壮年層が自家用車を利用した大型店舗での便利な買い物を選択した結果、商店街は衰退し、日本全体で1000万人以上と著者が推計する買い物難民層は苦境を強いられている。だが、青壮年層でも高齢者になれば同じ境遇になる。そうであるなら、同じ市民として、地域に商店があることの重要性をもっと認識し、地元で買い物を行うべきだと著者は主張する。しかし地域の商店の重要性は、買い物の困難さのみに依るのではない。買い物難民は孤立し、人と人との関係性は分断され、共同体は崩壊寸前にあるといってよい。それならば、世代間交流が可能なことから、とくに高齢者の生きがいにつながる福祉の場として機能するという意味で、地域の商店の存在は欠かせないのである。このとき、沖縄各地にみられる、地域毎に人びとの生活を支え、コミュニケーションの場となってきた共同組合方式の商店「まちやぐぁ」は参照に値すると筆者は強調する。
以上の視点のもと、前半では民間や行政による様々な取り組みが紹介され、後半では行政への提言や私たち市民がもつべき倫理が提起される。このように、すべての世代が生きがいを持てる共同体の再建こそ解決の鍵となる買い物難民問題は、社会全体の、すなわち私たち一人ひとりの問題なのだと主張する本書は、今後の日本社会のオルタナティブを提起する好著である。
『知識人とヘゲモニー 「知識人論ノート」注解 イタリア知識人史・文化史についての覚書』(グラムシ『獄中ノート』著作集V)
松田博編訳(明石書店、2013年4月、2,600円+税)出版社ページへ
すべての人間は知識人である、だれもが哲学者である、という広く知られた言葉が書きしるされている「知識人論ノート」の全訳・注解。〈知識人〉の社会学的・歴史的・地理的・政治的・教育的局面が俎上にのせられ、それらの刻印を受けたグラムシ流の知識人像が描かれる。とりわけ教育と知識人との関係については「学校教育にかんする考察――教育原理の探究のために」と題する節で、イタリアの教育改革をとりあげつつ「教授」と「教育」、伝統的学校と職業学校、古典語学習などが論じられる。グラムシのノートは該博な知見に裏づけられた叙述にあふれ、多分野の研究者の興味を惹き、こと知識人論となると読者自身のありようを揺さぶるものといえる。グラムシ研究の第一人者による訳文はみごとにこなれており、また本書の3分の1をこえる量の訳者解題もありがたい。小型本である本書は、書架に飾っておくのでなく、持ち歩いて読めるグラムシといえる。
『カントとアドルノ―自然の人間的歴史と人間の自然史』
横田榮一著(梓出版社、2013年4月、3800円+税)
本書は「自然の人間的歴史と人間の自然史」という副題を有するが、これまでTh.アドルノやK.エーダーらが提起してきた概念をふまえ、それらの組み換えを主題とするものである。人間の自然史とは、近代社会が自然過程としてあらわれること、社会とその歴史が自然化することを指す。他方で人間は自然を超える自然としての人間的自然であり、その人間的自然の歴史が自然の人間的歴史とよばれ、これは人間の自然史の止揚として人間によって構想される。人間の歴史は自然の歴史の延長であるとともに自然の歴史のいっそう豊かな形態であることが、自然の人間的歴史という概念で示される。そうして人間の自然史を自然の人間的歴史に変換することを著者は企図する。人間の自然史が新自由主義的グローバリゼイションとして展開されるなかで、「別の世界は可能だ」という運動は、それを止揚し自然の人間的歴史に変換する運動として位置づけられる。
そのさい考察対象になるのがカントの歴史構想であり「自然の意図」の理念であるが、著者はカント哲学全体にまで視野を広げ、体系的有機的にカントの自然概念を論ずる。もうひとつ大きな柱になるのがアドルノ『道徳哲学講義』などで展開されたカント批判である。著者はアドルノのカント読解を批判し、人間と自然との関係にかんするカントの理論とアドルノの理論がじつは通底していることを示しつつ、これを独自に発展させようとする。
1986年に『市民的公共性の理念』で広く世に知られたのち、2009年以降たてつづけに分厚い本を2冊上梓してきた著者は、さらに今年4月にこの大著を刊行した。どの著作にも著者の真摯な学者的姿勢がきざみこまれている。
『観察の政治思想―アーレントと判断力』
小山花子著(東信堂、2013年4月、2500円+税)出版社ページへ
気鋭の政治思想研究者による待望のアーレント論。 ニュースクール・フォア・ソーシャル・リサーチに提出した博士論文プロポーザルが出版点となったという本書で、著者は暗い思想家アーレントのテキストに、さまざまな希望がちりばめられていることを読み解いていく。
民主主義が機能不全を起こしているようにおもえる、現在の政治状況の中、著者はアーレントにおける「観察の政治思想」に、こうした状況を打開する契機を見出そうとする。それはたしかに、能動的な市民による「強い」民主主義を志向するものではないが、かといって、現実を遠くからシニカルに眺める聴衆にとどまるものでもない。むしろ観察はそうした聴衆を政治的に鍛錬し、「私」に閉じこもることから、政治的関心へと向かうきっかけとなるような態度であるという。
このように著者によればアーレントの観察は、コミットメントからの後退ではなく、コミットメントそのものである。例えば、そのようなアーレントの観察的態度を筆者が指摘するのが、アイヒマンの供述について笑いをこらえられなかったという、アーレントの報告である。アーレントはそうした報告が、不謹慎なこととして反感を買うことを心得ながらも、やはりそうした態度は修正できるものではなく、そうした批判を受け止めるしかないという。
著者自身も指摘しているように、アーレントには矛盾しているように思える主張がたびたび見られる。全体主義に対する根源悪という診断と、悪の凡庸さのテーゼ。アメリカ革命への賞賛と、古代ローマにおける保守主義への高い評価。労働に対する批判と労働運動への高い評価。アゴニスティックにも、アソシエイティヴにも理解できるテキスト。筆者は、アーレントのそうした矛盾をあえて解決しようとはせず、複数の相反する主張を宙づりにしたまま、そこにアーレントの思想の積極性を見出す。
筆者が、特に晩年の未完のテキスト『精神の生活』の第三部(そこでは判断力が扱われるはずであった)から取り出す、この観察の政治思想は、活動(action)を中心に理解されてきたアーレント観に変更を迫るものであり、本書は多くの批判を受けたアーレントの思想に新たな視点を与え、論理的整合性を超えた豊かさを描いている。
『反乱する都市――資本のアーバナイゼーションと都市の再創造』
デヴィッド・ハーヴェイ著/森田成也・大屋定晴・中村好孝・新井大輔訳(作品社、2013年2月、2400円+税)出版社ページへ
ハーヴェイの最新論文集である。都市開発と金融危機の関係、都市におけるコモンズ、そして「ウォール街を占拠せよ」をはじめ都市における反乱など、「都市」を主題とした論考が収められている。
いま、ルフェーブルの「都市への権利」という言葉が復活している。都市は、アーバナイゼーションによって過剰資本を吸収する場として、つねに資本の犠牲になってきた。新自由主義によって都市コモンズが収奪され、過剰な不動産取引は金融危機という破局を招く。一方、都市には突発的な集団行動が生まれる可能性がある。ウォール街の占拠運動やロンドンでの暴動、そして南米の多くの事例をみれば、都市空間が政治活動と反乱にとって重要な場であることが分かる。
こうした運動は、その多くが水平的な組織を志向し、ラディカル民主主義的あるいはアナーキズム的なものが多い。しかしハーヴェイは、こうした原理は大都市レベルでは機能せず、水平性とともに一定の階層性が必要であると指摘する。また、階級闘争の主体を工場労働者に限定すべきではないとし、すでにパリ・コミューンは都市における多様な収奪を批判する人々の運動であったと述べる。ハーヴェイは、反乱する都市として2005年に注目されたボリビアのエルアルトを例に挙げ、先進国においても建設労働者や輸送労働者など不安定な都市プロレタリアートをどのように組織するかが重要であり、局所的なワーカーズコレクティブなどを糾合して人民会議を打ち立てることを提案している。2006年には、移民による一日だけのストによって、ロサンゼルスとシカゴはその機能を停止してしまった。都市は、すでに一つの階級現象なのである。
『逃げられない性犯罪被害者:無謀な最高裁判決』
杉田聡編著(青弓社、2013年2月、2000円+税)出版社ページへ
本書は、近年相次いだ最高裁における性犯罪に対する逆転無罪判決(「09年判決」と「11年判決」のふたつ)を批判的に検討したものである。特に焦点があてられるのが、逆転無罪の根拠とされたいくつかの「経験則」である。被害者は逃げられたはずだ、助けを呼べたはずだといった「経験則」なるものがいかに不合理であり、狭い男性からの視点によるものであるかを、司法修習、裁判官の生活のあり方にまで踏み込み論じている。
さらに本書は、桐生正幸(犯罪心理学者)、橋爪(伊藤)精神医学きょう子、堀本江美(婦人科医)、養父知美(弁護士)という各方面の専門家による性犯罪に関連する19本ものコラムが要所に配されており、主題の理解を助けるとともにそれを超えて多面的な知見が得られる。以下はその一部の題名である。
:なぜ被害者は逃げられないのか/強かん者の犯人像/被害者は被告事実をどれだけ正確に記憶できるか/性犯罪に対する韓国の取り組み
終章では性犯罪のない社会をつくる改革を展望して、司法改革、被害者救済、加害者更生に関する具体策が展開されている。性犯罪の問題に関してひろい知見の得られる好著である。
『「3・11」後の技術と人間――技術的理性への問い』
杉田聡著(世界思想社、2014年2月、税込2,052円)出版社ページへ
本書のキータームは副題ともなっている「技術的理性」である。ここでの「技術的理性」とは、ある特定の技術が他者の人格の支配・抑圧や自然破壊といった深刻な帰結を必然的に伴うことに目を向けようとせず、ひたすら利便性の拡大をめざす技術進歩の方向性は一直線であり、それによって生み出される弊害はコストとして処理すればよいといった思想とそれに基づく実践のことである。
著者の交通弱者(命だけでなく遊び場や買物の利便性まで奪われる子どもや老人)の立場からのクルマ社会批判は有名であるが、目的地に早く楽に到達したいというエゴイズムに突き動かされ、高速で移動する鉄の箱のなかに立てこもって人々を蹴散らし、排気ガスをまき散らし、そのコストは保険料と炭素税の支払いという形で負っているのだから責められる必要などないと考えている自家用車の運転手は、「技術的理性」を行使する主体の典型である。著者は社会的弱者の位置にいる福島の人々と原発の関係にこのようなクルマ社会との同型的な構造を見る。
評者が最も啓発されたのは、このような「技術的理性」批判の立脚点となる「定言命法」とでも言うべき諸テーゼを展開した最終章の「「3・11」後の理性」の部分であった(著者はカント研究についても豊かな業績がある)。他者の人格を何よりも尊重する「人格主義的理性」、他者との応答=責任を第一義的なものと考える「応答的・対話的理性」こそが、「技術的理性」から我々を解放し、よりよき社会とそれを支える技術(時速4キロ以下で自力では歩くことのできない人々を乗せてゆっくり走る車や小川で回る水車といったイメージを評者は与えられた)への道を切り開く正しい意味での「理性」なのだという著者のメッセージを多くの人々が受けとめることを望みたい。
『自由主義と社会主義の規範理論――価値理念のマルクス的分析』
松井暁著(大月書店、2012年12月、4,500円+税)出版社ページへ
一昨年刊行の本書の短評が、ここまで遅延したことをまず著者に詫びねばならないが、この遅延の一因には、本書がマルクス解釈からリベラルのみならずリバタリアンやコミュニタリアンにまで至る諸派をも渉猟した上で、現代マルクス主義の在り様全般に対して重要で深刻な一石を投じている点で、本書の評価が極めて難しいことがあった。従前、例えば物象化論重視のマルクス解釈等においては、若きマルクスの「哲学の止揚」論もあって、哲学的な―――当然、本書が強調する規範性を含む―――マルクス論の評価は原理的に高くない。しかし本書は、「出口」が消滅しかねない物象化論偏重傾向に果敢に挑戦しており、分析的マルクス主義を重視しすぎだとは思われるものの、資本主義に内在した資本主義止揚論とも類比し得る筆致で、自由主義に内在した新たな自由主義の止揚を論じて、規範性重視の社会主義・共産主義論の礎石を据えようとする意欲に満ちた好著になっている。もっともこの自由主義への内在という方法自体にも、予め自由主義を超越/廃棄しうる規範性が更に内在せねばならないのではないか、という問いからすれば―――評者は、抑圧からの解放希求を嚆矢とする民衆イデオロギーへのマルクスの暗黙の依拠からして、この問への肯定的解答があると考えるが、民衆イデオロギーの在り様が時代と共に変容するのも自明である―――、本書ではまだ現実化しておらず可能性に留まる新たな社会主義・共産主義論の懐胎も見据えねばならないのではなかろうか。何故なら、自由主義が重宝してきた自由や平等や所有等々の個々の概念自体をマルクス的に分析する現在の営為自体が、共産主義志向のマルクスの大きな意図に繋がりながらマルクスの時代的制約も十分踏まえた、上記の概念・規範についての新たでより大胆な展開を要請することになる、と思われるからである。こうした点を表出させたところに、本書の最も大きな意義があるように評者には感じられるのだが、いずれにせよ間違いなく本書は、凡そ現代の左派的変革を志向する全ての人が読んで議論すべき大切な刊行物となってゆくはずである。
『物心一元論とはなにか―心と物世界の主客相関の哲学』
瀬戸明著(桐書房、2012年12月、3000円+税)出版社ページへ
2006年に『存在と知覚』を上梓した著者が、ひきつづき「新しい統一哲学」の構築をこころみた一書。これまで二元的にとらえられてきた主観-客観の新しい内的構造を解明することが、現代哲学の最高の根本課題であり、哲学の最深部の原理をなすという著者は、物心一元論を呈示する。主客二元論を乗り越え、物と心、主観と客観を、その同一性と区別性において把握するのが、物心一元論である。主観と客観とは同一でありながら、客観は主観から独立しているという、矛盾した形、つまり弁証法的な形をもって、主客関係は成り立つとされる。
これは唯物論・観念論双方の合理的側面を積極的にとりいれることである。一般に主観的観念論の代表格とみなされるジョージ・バークリが本書では肯定的に評価され、存在と知覚にかんする問題提起があらためて重く受けとめられる。本書では「第一次知覚」「第二次知覚」という概念装置が示され、感覚は主観的であると同時に客観的であるという「感覚の二重性」が物心一元論における哲学の第一原理であることが論じられ、そのうえであらためて物とはなにかが整理される。マルクスも著者のいう「感覚の二重性」の理論において再評価されるが、同時に「従来型」唯物論がかかえる哲学としての不十分性も指摘される。
著者によれば、いまや唯物論か観念論かのどちらか一方ですませる「幸福な時代」は終わっているが、そもそも哲学が近代において唯物論と観念論とに分裂したことが「哲学の自己疎外」であり、両者を統一する高等哲学がもとめられている。著者渾身の問題提起を、唯物論者たちはどう受けとめるか。
『もしマルクスがドラッカーを読んだら資本主義をどうマネジメントするだろう』
重本直利著(かもがわ出版、2012年12月、1900円+税)出版社ページへ
本書は、既に10年以上前から、社会問題の解決のための資本主義システムのあり方自体の変革と、この変革に資する社会全般に関わる新たな経営手法の開発を主眼とする社会経営学を提唱し、2011年には『社会経営学研究――経済競争的経営から社会共生的経営へ』を編著者として刊行してきた著者が、対話論などもおりこんで、市民マネジメントなども含む社会経営という分野の重要性を素人にも判り易く説いた好著である。しかも本書には、個人志向のボトムアップ型管理方式を唱え利益は企業の目的ではなく尺度(手段)とするドラッガーと、彼の源流であり近年研究が進んでいる制度派経営学のM.P.フォレットの、人による管理ではない事実による管理論や、トップダウン的管理ではない相互関連的管理論等々、この分野の専門家にも考えてもらいたい多数の論点も含まれている。加えて、資本主義的な疎外・物象化論はないが、29年恐慌を踏まえた資本主義の体制的限界論があるドラッガーによる企業の目的を顧客創造や企業外の社会とする点と、『資本論』第3巻の資本における指揮・監督・管理機能やウェーバーの官僚制化論との関連など興味深い把握がある他、物作りの一手法でしかないPDCAサイクルに振り回されがちな現在の大学の在り様の変革にとっても示唆に満ちた本書は、多くの研究者・大学人に読まれるべきだと思われる。
『〈災害社会〉・東国農民と親鸞浄土教』
亀山純生著(農林統計出版、2012年12月、4000円+税)出版社ページへ
「歴史に埋め込まれた親鸞」を明るみに出すべく、「災害社会」たる中世社会の実相と深くかみ合った親鸞像を提出すると共に、親鸞浄土教の特質と信仰の論理を、既存の「歎異抄主義」からではなく、『教行信証』の構造から浮かび上がらせる。中世東国農民の生きた世界と向き合う親鸞の思想を内在的に解き明かす大著。長年にわたる著者の親鸞及び鎌倉仏教研究が凝縮された本書は、専門外の読者にもすさまじい迫力と魅力をもって迫ってくる。扱われている一つひとつの論点が中世思想、親鸞研究の核心を衝く学問研究の力に溢れていることはもちろんだが、同時に、前著『中世民衆思想と法然浄土教』等をつうじ著者が表明してきた宗教観、宗教把握の革新が、本書の親鸞研究に見事につらぬかれている。鋭い問題意識と緻密な検証・読解とを織り合わせた著者のゆるみない力業に敬服する。日本思想史の専門家のみならず、思想のリアリティに寄せる多くの読者に触れて欲しい一書。
『「問題」としての青少年―現代日本の〈文化‐社会〉構造』
中西新太郎著(大月書店、2012年12月、3000円+税)出版社ページへ
長年にわたって青少年をめぐる諸問題に取り組んできた著者による本書は、まずもって、社会的に「問題」とされてきた「青少年」をめぐる言説史であり、ある種の「メタ若者論」として読むことができるだろう。「若者」や「青少年」をめぐる言説を批判的に取り上げ、それらの矛盾、論理の綻びを指摘するというだけであるなら、そうした著作はこれまでにも数多く発表されてきた。しかしながらそれらには、「若者」をめぐる言説がそのような矛盾を抱えているにもかかわらず、一定の強度を持って支配的な影響を及ぼし続けてきたという事実に対する社会的・歴史的検討が欠けていたように思う。それに対して本書は、一連の言説が持つ論理的な矛盾を丹念に分析しながら、それが同時代の社会構造(著者が言うところの〈文化?社会〉構造)によって深く規定されているということ、すなわち、(ある時期までは)企業社会秩序そのものが持つ矛盾が、特定の言説を要請し、またまたそうした関係ゆえに、支配的な「青少年」言説が、現実の「若者」や「青少年」をめぐる特定の問題領域を隠蔽してしまっていることまでをも、鮮やかに描き出すのである。そしてさらには、そうした〈文化?社会〉構造が、企業社会秩序崩壊以後の若者たちが抱える固有の困難を、その困難に対する一般的な錯誤をも含めて、深いところで規定していることまでをも指し示し、現代の青少年が生きる危機的状況を歴史的に捉え返すことにも成功している。そこには明示的ではないものの、現在にいたるまで溢れかえる数多くの「若者論」に対する鋭い批判も含意されており、その意味では、著者自身のこれまでの研究の総括とも言える本書は、現代日本における「若者論」の総括でもある。
『宗教・唯物論・弁証法の探求』
両角英郎著(文理閣、2012年12月、2800円+税)出版社ページへ
本書は表題の通り、著者のこれまでの研の成果を3つの主題のもとに総括したものである。なかでも興味深いのが、マルクス主義や社会変革の観点からキリスト教について論じた第T部の諸論考であり、解放の神学、「宗教的多元主義」をめぐる神学者の論争、キリスト教と環境倫理、といったテーマがとりあげられている。特に、牧師の川端純四朗氏と著者との対談「現代における変革の課題とキリスト教」(『思想と現代』32号に掲載)は、東欧激動のさなかであった1993年のものでありながら、今日の状況にも十分通じる内容を含んだ、大変読み応えのある章となっている。第U部はヘーゲルの目的論やローレンツの進化論的認識論、また第V部は論理的矛盾と現実の矛盾との関係、あるいは普遍・特殊・個別の関連をめぐる論争などが取り上げられており、著者の視野の幅広さを伺い知ることができる。
『倚りかからぬ思想』
鈴木正著(同時代社、2012年12月、2200円+税)出版社ページへ
本書は思想史家としてこれまで数多くの書物を公刊されてきた著者の「店じまい」のエッセー集と位置づけられている。タイトルは「列強に倚りかからない」という趣旨からとられたと推測できるが、内容は広い意味での戦後民主主義の精神、著者によれば「思想としての多元主義」をむねとする多様なエッセイが収められている。それらのいずれもが、著者の体験や経験から構成された具体的な論点と切り結んでおり、それを総合することで著者自身の思想史的スタンスや関心が明らかになる。たとえば、著者はまず日本思想史家として昌益を論じた狩野亨吉の自然への着目からスタートし、3.11の震災等への視点を確保している。第二に、思想の科学の会員として、とくに丸山や鶴見俊輔の多元主義的思想と方法を引き継ごうとしている。第三に、この視点から「除名なし」を旨としたA・グラムシによってマルクス主義の戦後的方向を導き出そうとしている。第四に、中国評価にかかわってケ小平以来の社会主義的市場経済よりも、毛沢東を再評価しようとしているなどなど・・・、まさに論点は多様であり、教科書的定番とは異なる指摘が随所にちりばめられている。これらは必ずしも戦後思想の常識的理解ではないだろうし、著者の見解に同意できないところもあってしかるべきである。だが、それらの諸論点はけっして偶然の寄せ集めではない。むしろ日本国憲法が包含する戦後精神の幅であり、多元性そのものであろう。結局のところ著者はこの憲法の民主主義と平和主義を基盤に構成された戦後の多様性と奥深さを示そうと試みているように思える。その意味で、私たちが戦後思想の意味を問い直すさい、生きられた参照点になっていることが本書の最大のメリットであると思える。
『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』
清眞人著(藤原書店、2012年12月、4200円+税)出版社ページへ
清氏の今までのサルトル論(『<受難した子供>の眼差しとサルトル』『実存と暴力』)とニーチェ関係の著作(『《想像的人間》としてのニーチェ』『三島由紀夫におけるニーチェ』など)を総合する著作である。初期サルトルをニーチェ主義者とみなして、後のサルトルよりも高く評価するベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの時代』に反論し、サルトルを、「ニーチェの継承者にして対決者」として描きだそうとする。特に、サルトルの「存在欲望」の概念は、ニーチェの「力への意志」の概念にインスパイアされて生まれたものであるが、その根底には、「力への意志」の思想に基礎をおくニーチェの「主人道徳」のモラルに対決しようとするサルトルの明確な企図があるとする。そして、「存在欲望」がもたらす暴力性を批判し、ニーチェの「力のモラル」に対して、愛とジェネロジテに基づく「相互性のモラル」を探究するところに後期サルトルの本領があることを立証している。
現在のニーチェ主義の流行に対して根本的な批判を行なったものとして、現代思想に関心をもつ人々に広く読まれるべき書物である。
『環境哲学のラディカリズム―3・11をうけとめ脱近代へ向けて』
尾関周二・武田一博ほか編著(学文社、2012年11月、2500円+税)出版社ページへ
尾関氏や亀山氏の尽力で設立された「環境思想・教育研究会」の若手メンバー(農工大大学院関係者であり唯研会員でもある)を中心に、尾関氏、武田氏が編者となって刊行された環境哲学の論考集である。3・11原発事故をうけてまとめられたものだが、若い書き手の論文はどれも構えが大きく、荒削りだが「期待させるものがある」と感じさせる。また、2009年に亡くなったディープエコロジストのアルネ・ネスを追悼する印象的なエッセイやドイツ人の3・11経験、マルクス再考など様々な視点が刺激的である。
収録されている論文のタイトルと執筆者は以下のとおりである。
第T部 エコロジー再考のラディカリズム
1 真の環境ラディカリズムとは何か―「自然に従う」ということ 武田一博
[エッセイ]アルネ・ネスに安らかな眠りを キット・ファイ・ネス
2 環境的に持続可能な文明の創造―マルクスのラディカルな再考とともに アラン・ゲイ
3 日独に置ける「共生」と「エコロジー」をめぐって―ディスクール分析のラディカリズム ライノルト・オプヒュルス鹿島
第U部 近代批判から脱近代へ―現代社会の諸相をめぐって
4 人間と自然の共生の意味を問う―「自然?作為」と「物象化」の議論を軸に 穴見慎一
5 「自然の社会化」への物象化論的アプローチ―人間と自然の物質代謝の亀裂の克服のために 永谷敏之
6 根こぎと共感―資本主義批判と脱近代の視点から 東方沙由理
7 エコロジー的主体とエコロジー的社会の探究―近代「個人」の批判と自由の時間の考察を通じて 大倉茂
8 情報思想から見た地球環境問題への応答責任―コミュニケーション、苦痛、そして他者性の視点から 吉田健彦
第V部 脱近代の文明・社会へ向けて―3・11以降の世界
9 3・11原発震災と文明への問いかけ―脱近代への条件の探究 尾関周二
10 ドイツ「脱原発」の背景の思想と心情―“3・11”に臨んだドイツ人たちの反応から ライノルト・オプヒュルス鹿島
11 環境哲学における<共>の現代的視座―人間と自然の関係についての新たな社会哲学的構想 布施元
『渡辺治の政治学入門』
渡辺治著(新日本出版社、2012年11月、1500円+税)出版社ページへ
「入門」と銘打たれてはいるが、政治とは何かといった一般的説明がされている本ではない。むしろ「目の前で 現に展開している政治現象を、ナマの資料・情報を使いながら、それが出てきた背景やねらい、一見ばらばらに展開している様々な政治現象の 相互関連などを明らかにしようというもの」である。2010年7月から12年9月にかけての連載がもとになっている。鳩山民主党政権発足からその変質、管、野田政権に至る時期である。新自 由主義的政策に対する批判が高まり、そのひずみの是正の期待を受けて成立した民主党が変質していく過程を具体的に分析する。その意味で本 書は現代日本政治への入門でもあり、その分析手法をつうじて政治学への入門をはたそうとするものだ。政治学について特に「入門」を必要と しない読者にとっても、この間の政治の流れについての総括的な視点を提供してくれる本書は薦められる。本書の対象である範囲は総選挙以前 であり、安倍政権成立と今後の政治の方向性について、筆者の論の展開が俟たれる。なんらかのかたちでの続編を期待したい。
『遺伝子操作時代の権利と自由』
S.クリムスキーほか編/長島功訳(緑風出版、2012年10月、3000円+税)出版社ページへ
遺伝子組み換え食品、遺伝子プライバシー、遺伝子差別、遺伝子治療、ヒト・クローニング、優生学、生命特許、生物植民地主義、出生前遺伝子診断などにかんする情報と論評をおこなっている米国の非営利市民団体の論文集。化学、生物学、神経学、分子遺伝学、法学、環境政治学などの専門家23人が「生物多様性を保護する権利」「生命特許と民主主義的な諸価値」「自己決定と自己防衛の行動」「先住民族と伝統的な資源を守る権利」「遺伝子の安全性に対する権利」「有害物質と公衆の利益」「障害者の権利から見た優生学」「個人のプライバシーに対するバイオテクノロジーの挑戦」「職場での遺伝子差別」「犯罪科学上の証拠としてのDNA」「人間の発生が修正される危険」といった主題を精緻に論じてゆく。巻末には「すべての人は、遺伝子差別を受けない権利を有する」という条項をふくむ遺伝子権利章典が附されている。とはいえ本書は、バイオテクノロジーを全面的に否定しているのではなく、公共の福祉や環境保護や平等の正義や人権優先へとバイオテクノロジーを方向づけようとするものといえる。社会科学と自然科学とが交叉する現代的課題を、米国のみならず日本でも逸早く受けとめるべきとする訳者の思いが伝わる一書である。
『若者が働きはじめるとき:仕事、仲間、そして社会』
乾彰夫著(日本図書センター、2012年9月、1500円+税)出版社ページへ
若者が働きづらい社会のなかで、働きやすい環境をつくるためにはどうすればよいか。こう問いをたてる本書が重視するのは、主体である若者の具体的な現実から出発することである。アンケートや聞き取り調査から見えてくる、在学中のバイトの現実や正社員として働き始めた若者たちの多様な現実。そこからは、様々な困難とともに、働きつづけることを支える要素が浮かび上がってくる。そのうえで、それらの困難を生み出す社会構造が分析され、働きやすい環境を作り出すための方策が提起される。こうした形がとられるのは、「少しでも身近なほかの人たちと、問題を共有していく方法を見つけ出すことが、自分の問題を職場の問題や社会の問題につなげていく道筋だと思います」とあるように、本書が若者の主体形成を強く意識しているからに他ならない。それにより、本書は主たる読者である若者の主体形成の契機として位置づくのはもちろんのこと、若者と働くことをめぐる諸研究に対する鋭い問題提起ともなっているのである。
『現代の技術と知識労働――技術思想批判から管理論へ』
竹内貞雄著(晃洋書房、2012年8月、2500円+税)出版社ページへ
本書は管理技術論を研究している著者の科学・技術思想の批判の書である。現代の労働が、技能からテクノロジーへ、そして知識労働へと進化するなかで、著者は伝統的な科学・技術の理解や技術思想を批判しながら問題提起をしている。著者の立脚点の大枠はマルクスの疎外論、物神性批判論であり、そのなかで彼の「デザイン批判」の視点を継承しながら、「社会的理性」による技術管理を積極的に提起する。それは肯定的、否定的な両面をともなう技術の人間的管理の積極可能性の提起といえるだろう。
このような視点を著者はマルクーゼ、フィンバーグ、アルチュセール、ベックらの現代思想や原発技術を批判的に扱うなかで提起する。細かい論点は紹介できないが、大枠の主張は、科学ではなく技術が現代の中心問題となり、その問題は単に理論的、構造(主義)的にではなく、技術管理の次元の問題として、その社会化、理性化を基準に判定されるべきだとする。著者も脱原発の主張に賛同するが、それは、あくまで原発が人間による技術管理を超えたものであることとしてとらえる。著者はポスト・モダン思想にたいして、むしろ近代的主体や「社会的理性」の可能性を技術管理の問題として、資本による物象化を超えて積極定立するのである。
最後に二点要望したい。第一点は技術管理論の積極的地平を直接の主題として議論してほしいことである、それは文献的世界にとどまらないからだ。第二に、諸イデオロギーの批判には客観的理解も不可欠であるが、評者はこの点で本書の論述に不安感を覚えた。今後の積極的議論を大いに期待したい。
『脱原発と工業文明の岐路』
岩佐茂・高田純著(大月書店、2012年8月、2400円+税)出版社ページへ
本書は3.11の問題を哲学的に受け止めるべく、両者の討論のうえでなったものである。共同執筆された序論「哲学は3.11をどう受け止めるか」では本書においては二つのことが念頭に置かれているという。まず、3.11は「人びとの生活様式と生活意識に関わる」ということ、そして3.11は「それまでの人間の生活様式や生活意識の限界を露呈させ、それらを変革する景気を与えた」ということである。これが本書の基本的な視点であり、これにもとづき、具体的な問題から文明論的な枠組みまでのスケールで3.11の問題が哲学的に考察される。
以下が序論以降の大きな構成である。
:ポスト3.11の文明論的意味/問われる原発依存/問われる科学・技術/問われる工業文明/脱工業社会における共同
『概説 現代の哲学・思想』
小坂国継・本郷均編著(ミネルヴァ書房、2012年5月、\3500+税)出版社ページへ
哲学史における現代哲学の諸潮流を概観する第T部と、応用倫理的ないし広義の現代思想的な主題を概観する第U部とからなる、厚めの一冊。第T部では、生の哲学、実存主義、現象学、解釈学、プラグマティズム、ホワイトヘッド、分析哲学、構造主義・ポスト構造主義、社会哲学・政治哲学がとりあげられる。第U部は、正義論、医療倫理、ビジネス・エシックス、環境哲学、ジェンダー論、脳と心、無意識の心理学、科学論・技術論を論じる。
いずれの章もほとんど予備知識なしで読め、おのおのの理論を概観できる。ただ、本書は20人ちかい研究者によって分担執筆されており、当然ながら執筆者によって問題意識が異なる。唯物論や現代社会批判に関心をもつ私たちにとって読み応えがあるのが、第T部末尾の「第9章 社会哲学・政治哲学」(日暮雅夫執筆)である。
この第9章ではフランクフルト学派が主題的に論じられている。まずこの学派の第一世代・第二世代・第三世代の構成が示されたのち、第二世代ハーバマスの数多い著作のなかから『コミュニケイション行為の理論』と『事実性と妥当性』の主要論点が要領よく語られる。つづいて第三世代ホネットの『権力の批判』『承認をめぐる闘争』を題材に、おそらくは執筆者の問題関心にそくして、承認論の基本構造と今日的意義とが論じられる。この章は、ハーバマスやホネットの理論を「ごくごく概略的に示したものである」かもしれないが、そこには執筆者積年の研究成果が盛りこまれており、これらの理論の的確な理解に碑益するところ大である。
『ソーシャルワークの復権――新自由主義への挑戦と社会正義の確立』
イアン・ファーガスン著/石倉康次・市井吉興監訳(クリエイツかもがわ、2012年5月、\2400+税)出版社ページへ
イギリス・サッチャー政権からブレア政権にいたる新自由主義改革が、ソーシャルワークの現場にどのような悪影響を及ぼしたかを論ずる、ラディカルな批判の書である。96年の労働党による政権交代以降も、イギリスでは格差、そして健康格差が拡大していった。ブレア政権による改革では、「パーソナル・アドバイザー」によって、福祉受給者が自己責任原理にもとづき道徳的に振る舞うよう強制され、マネジメント主義や管理主義が導入されることによって、ソーシャルワークは規制と査察に縛られるようになった。また、民間営利セクターが競争に参入することにより、コスト削減の圧力からケアの質と継続性が犠牲にされてゆく。専門的なソーシャルワーカーの権限は縮小され、上級管理者に経営が委ねられるようになる。いずれも、日本が他山の石として学ばなければならない厳しい現実である。
本書のもう一つの特徴は、歴史をたどることによって対抗的な「ラディカルソーシャルワーク」の伝統を掘り起こすとともに、ポストモダニズムの思想が物質的不平等を問題化しないことを批判しつつ、新たな「クリティカルソーシャルワーク」の理念を模索していることである。本書は、新自由主義改革に批判的なソーシャルワーク研究の文献が幅ひろく紹介されている点できわめて有益であるとともに、自らの批判を思想的に基礎づけようとする著者の姿勢には、啓発されるところが大きい。
『カント哲学と現代―疎外・啓蒙・正義・環境・ジェンダー』
杉田聡著(行路社、2012年5月、3400円+税)
カントの行なった「理性批判」が、現代においてどのような意味を持ち得るかを追求した著作である。第一章では基礎理論としてカントの「自由論」が考察される。特に、「人間本性それ自体」が「英知的所行として自由の所産」であるというカントの思想が強調され、それが第二章では、「疎外」を人間が克服し得る主体的根拠として説き直される。第三章「啓蒙」では、カント的道徳性を見失った福沢諭吉の「啓蒙的理性」が「野蛮」へと逆転する機制が大きなテーマとなっている。第四章ではカントの「正義」論が、功利主義を批判するロールズの「格差原理」と同じ含意をもつことが強調されるとともに、特に、アメリカ先住民からの土地略奪を正当化するロックの論理と対比される。また、モーターリゼーションの不正義の問題が論じられている。第五章では、カントの目的論的自然観が環境問題へ与える影響が主題化されている。第六章では、特に性暴力を中心としたセクシュアリティの問題やジェンダーの問題が論じられると共に、フェミニズムの側からの「男性的理性批判」にどのように応答するかが考察される。最後の「結びにかえて」では、主に「義務の衝突」の問題から、カント的理性の限界について述べられる。以上のように、杉田氏がこれまで展開してきたいろいろな現代的問題を、カント哲学との関連において総括した杉田氏の哲学的主著といえる著作となっている。
『キーワードで読む 現代日本社会』
中西新太郎・蓑輪明子編著(旬報社、2012年5月、\1300+税)出版社ページへ
本書が編まれた意図は、次のことばから理解できるだろう。「かつての日本社会は、普通の人たちの仕事や生活に関わる問題点を克服するためのしくみが曲がりなりにもはりめぐらされていましたが、現在では、その仕組みがどんどんと壊されていき、普通お人たちが不安でいっぱいにある社会がつくられたのです」(p.13-4)。このような現代日本社会の普通の人の生活の危機という認識に立ち、それを理解する社会科学的な理論枠組みをわかりやすく提供しよう、というのが本書の趣旨である。本書は以下の11のキーワードについての解説によって構成されている;1労働、2貧困、3大人になる、4資本主義、5福祉国家、6新自由主義、7生活、8家族、9女性の労働、10グローバリゼーション、11ナショナリズム。それぞれのキーワードを中心にして現代のわれわれがどのような状況におかれており、それがどのような社会構造、その変化に由来するものかが、説明されている。自身の抱える困難を個人の問題ではなく、社会問題として捉え、問題を社会科学的に考えるための格好の入門書として推奨できる。
『カント実践哲学とイギリス道徳哲学―カント・ヒューム・スミス』
高田純著(梓出版社、2012年4月、\3200+税)
カントの実践哲学については、かねてよりスコットランド啓蒙における道徳感情論の影響が指摘されてきたが、その際カント自身も言及するハチソンが扱われることはあっても、その影響を受けたはずのヒュームやアダム・スミスに言及されることはほとんどなかった。本書は、道徳感情論の影響が強かった初期の実践哲学を射程に収めながら、ヒューム、アダム・スミスのカント実践哲学への隠れた影響を明らかにしようとする。特にヒュームについては、「独断のまどろみ」をさまさせられたという有名なことばから、理論哲学における影響が取り上げられることはあったが、カントの実践哲学においてもヒュームとの対決があったことを著者は指摘する。カント実践哲学研究に新たな視点を提示するものとして、今後のカント研究において重要な著作となるだろう。
『西洋哲学の軌跡―デカルトからネグリまで』
三崎和志・水野邦彦編著(晃洋書房、2012年4月、\2700+税)出版社ページへ
本書は近代から現代の西洋哲学の流れを、著名な哲学者の思想を追うことで俯瞰できるようにまとめた哲学の入門書である。
総勢25名の執筆陣により書かれた、著名な哲学者についての解説とコラムによって織りなされている。取り上げられている哲学者は以下の通りである。近代哲学の成立期の哲学者としてデカルト、ホッブズ、スピノザ。啓蒙の哲学者としてルソー、スミス、カント。ドイツ観念論から唯物論への流れに位置付く哲学者としてヘーゲル、シェリング、フォイエルバッハ、マルクス。現代哲学を基礎づけた哲学者としてフッサール、ハイデガー、アドルノ、デューイ、ウィトゲンシュタイン。現代へつながる哲学者としてアーレント、ハーバーマス、フーコー、ネグリ。
それぞれの解説は、各哲学者の生涯や時代背景がわかるような人物紹介があったうえで、その思想についてコンパクトにまとめられている。まとめ方は執筆者によって様々だが、単なる思想体系の要約にとどまらず現代的な解釈や論争に言及したものも多い。現代の生活に哲学がどう応用できるかという観点で差し挟まれたコラムも、入門者が哲学を学ぶうえでの問題意識をかきたてるのではないだろうか。教科書として活用が望まれる一冊である。
『マルクスの思想を今に生かす』
鰺坂真・牧野広義編著(学習の友社、2012年1月、2,600円+税)
近年、マルクスの再読・再評価が進んでいると、いまや世評でもよく語られている。そうした中で、本書は編著者たちが『現代に挑む唯物論』(1996年)以来の共同執筆を踏まえ、「改めて21世紀の観点から、マルクスの哲学・思想を再評価することを試みた」(「まえがき」より)論文集である。まずは本書の構成を以下に掲げよう(敬称略)。
第1章 マルクスの資本主義分析と「震災後の新しい日本」(石川康宏)
第2章 マルクスの「新しい唯物論」はいかに形成されたか(鰺坂真)
第3章 マルクスの変革の哲学(牧野広義)
第4章 現代の労働現場をマルクスから考える(中田進)
第5章 今日の労働時間問題とマルクス――損保産業の現場から(松浦章)
第6章 マルクスの人間観(上田浩)
第7章 マルクスの「宗教とその未来」論(伊藤敬)
第8章 多数者革命と議会制民主主義(長澤高明)
以上のように多数の全国唯研会員も執筆している本論文集において、マルクスの思想の可能性が、その理論的な基盤から現代日本の労働現場、宗教や政治動向、そして震災と原発事故に至るまで、さまざまな側面から分析されている。
しかしながら、たださまざまな観点からの分析を寄せ集めた、という印象はない。というのも、現代日本における問題の一つの焦点が労働時間の過剰をはじめとする労働現場にあること、そしてその克服には何よりも人間の社会的・歴史的な発展と変革の可能性が必要となること、この観点が本論文集を通じて一貫しているからである。その結果、現代の具体的な問題の根底をマルクスから読み解くというアプローチと、マルクスの思想に関する原理的な考察とが上手くかみ合わさっていると言えよう。
その意味では、たとえばマルクスの入門書を読み終えたのちに、より具体的な問題と関わらせて考えることを通じてマルクスへの理解を深めるために読む、というような読者にもお勧めできよう。
『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』
佐々木隆治著(社会評論社、2012年1月、\3700+税)出版社ページへ
本書は、マルクスの経済学批判を、「近代を成り立たせているもっともエレメンターリッシュな関係とその論理」=物象化について解明し、そこから近代社会の変革の条件と可能性を明らかにしようとする壮大な試みであったとの了解の下に、とりわけ物象化を3つの次元――狭義の物象化、物神崇拝、物象の人格化等による実践的態度の形成、という諸次元――で解明するものである。狭義の物象化は、商品生産関係を前提として私的労働を行う生産者が生産物を商品=物象として相互に関係づけることによって、生産物が物象として社会的力を獲得する事態として把握され、ここから著者はさらに、物象化を変革する素材次元にまで議論を進める。物象化論の大枠の把握と実践的次元への視座は、示唆するところが大きい(私的労働そのものの存立条件、物象化の下での本源的無所有と所有との関連など、疑問なしとしないが)。本書は物象化論を、疎外論、所有論、変革論など多くのテーマとつなげて展開しており、大いに議論がなされることを望みたい。
『〈核発電〉を問う: 3・11後の平和学』
戸田清著(法律文化社、2011年12月、2300円+税)出版社ページへ
平和学と環境学の視点から「原発」(著者は「原子」と「核」という言葉のイメージ戦略的な使い分けを避けて「核発電」とよぶことを提唱している)の問題に取り組み続けてきた著者が、3・11後にその論点をまとめたのが本書である。コンパクトな著作ながら、論点の多様さには驚かされる。福島の事故に関することはもちろんだが、平常運転時の問題や廃棄物処理問題をも丁寧に論じている。また、日本社会における原発の歴史やエネルギー問題と合わせたこれからの方向性にも言及しており、さらに核とどうつきあうかといった根本的な議論も提示している。章の間に挟まれているコラムも理解の助けになる解説やエピソードが豊富でおもしろい。膨大な文献リストもついており、原発問題の入門書として重宝するだろう。
筆者はあとがきで「私は原発が好きでも嫌いでもない。好き嫌いの感情だけで原発を判断してはいけないと思う。」と述べ、感情論で議論することを戒めつつも、はっきりと反原発のスタンスをとっている。核エネルギーそのものは太陽活動を始めとして恩恵をもたらすものであるが、人類が核分裂や核融合を直接もてあそぶことは危険が大きすぎるし、必要性もないというのが一つの理由である。しかし、そのようなある意味ありふれている功利主義的な判断基準とは別に、平和学の見地から核をみるという切り口が特に印象深い。現在の平和学では「平和」の反対は、「戦争」ではなく、「暴力」であると理解されている。その「暴力」には直接的暴力だけでなく、構造的に貧困や差別を生み出すような構造的暴力や、それを言説的に覆い隠すような文化的暴力も含まれる。核をこの視角でとらえると、直接的暴力としての核兵器はもちろんであるが、構造的暴力として核兵器産業や原発などが人々に犠牲を強いているし、それを覆い隠すための核抑止論や原発安全神話などの文化的暴力も伴っている。日本の原発政策を見ても、過疎地への立地の仕方や被曝労働の実態から、その暴力性は明らかであろう。平和の問題として原発をとらえることで、「平和利用」の欺瞞がますます際だつものになる。本書ではこの方向での考察がそれほど大きく展開されているわけではないが、この視点を入り口に原発への対抗の理論がより深まるに違いない。
『物語としての社会科学: 世界的横断と歴史的縦断』
竹内真澄編(桜井書店、2011年12月、4200円+税)出版社ページへ
本書は著者の二〇年来の研究を集大成した労作であり、近代世界を俯瞰し、新たな時代を展望しようとする意欲作でもある。そこには戦後社会科学と近代世界論、アメリカ論、近現代日本論、東アジア論などの多様な領域から、平和や民主主義、社会権論など現代社会科学に必須のパースペクティヴが時空を超えて織り込まれており、著者の学識の広さをうかがい知ることができる。浩瀚な書物であるだけに、ここで全体を紹介することは到底できないが、一読後に評者の心に残ったかぎりでの三つの論点にふれたい。第一に、本書には私たちが取り組むべき物象化論の問題地平への示唆である。著者は森有正の思想形成をもとに、社会科学と主体的自我形成とがともに可能になる「三人称」的世界と削出し、それが物象化された世界と対抗しながら、それとは異なった次元で社会科学の地平を開いたし開きうると考えている。そして、この点に著者は現代社会科学とそれによる主体形成の可能性の根拠を見出し、また同時に西欧および日本のモダニズムの規範性喪失の問題性を指摘している。
さらに、著者はそうしたモダニズムの転落を一九世紀思想に淵源を有するととらえ、それにたいして、一八世紀的啓蒙論を対置する。それは典型的にはカントの自立(自律)論あるいは一八世紀思想の可能性を掬い取り、しかもたんに階級的でなく、同時にグローバルに「万人」のものとして再生させようとしている。この点で、本書の基本主張は、一方で二〇世紀福祉国家の積極性をふまえながら、それをいっそう現代化し、新自由主義的自立論の抑圧を内側から越え出る世界市民的自立論にリンクさせることであり、オリジナルで論争的な問題提起になっている。評者は、この提起に触発されるとともに、反物象化の「三人称」社会科学の可能性と一八世紀的自立論とがどうかかわるのか、また一八世紀自立論とハイチの奴隷解放革命や社会権的論、福祉国家論とのリンクがどう関係づけられるのか、さらに展開を期待したい気持ちを禁じえない。
最後に、著著のタイトルについて付け加えたい。ここから読者はただちに内田義彦を連想することができるし、じっさい、本書を通読すれば、著者はマルクスを基盤とする戦後市民派社会科学の系譜上にあって、その制約を超出するスタンスをとっている。「物語」はたしかに聞く立場を想定した学問に道を開くが、評者はなにより、著者が分析的であるよりも、現代世界の直観を与えていることを評価したい。瑣末で、意味不明の「科学」はそれ自体が物象化された科学への惑溺と隣り合わせでもある。本書はこの点で、物象化された(研究)世界とたたかう知識人、とくに若い社会科学研究者へのパースペクティヴと良識的ヴィジョンの贈り物といえるだろう。
『よく考えるための哲学』
細谷実著(はるか書房、2011年12月、1700円+税)
本書は、「哲学を専攻していない人々に、哲学的に思考することを実際に体験してもらうための本」として書かれている。哲学の代表的な問題や学説紹介というかたちの「いわゆる哲学入門書」ではなく、「世界のものごとについてよく考えていくための初歩的な哲学書」だと述べている。そして現在、よく考えるために必要なこととして2点が特に留意される。ひとつは、「世界についての見方と他の人々の見方の関係について知っておくこと」、これは「まわりの期待に流されやすい傾向」と、最近の特に若い人にみられる「自分の抱いた直観や印象に閉じこもりがちだという支配傾向」に批判的に対峙する意味がある。もうひとつが「現実性ということに十分に考えていくこと」で、徹底した世俗化と同時に「オカルトやファンタジーへの嗜好が蔓延」している現代日本社会のあり方を念頭においてのことである。
『世界における人間』(グルントヴィ哲学・教育・学芸論集@)/『生の啓蒙』(同A)
グルントヴィ著/小池直人訳(風媒社、2011年6月・12月、@1,800円+税/A2,500円+税)出版社ページへ
訳者によれば、近年「世界一幸福な国」という枕詞をもらっているデンマークを精神的、思想的秘密を体現するのは詩人にして聖職者のグルントヴィである。しかし、彼は北欧でしか知られず、日本でも二〇世紀前半の「日本デンマーク」運動の時代を除いて、辺境の農民思想家、小国ナショナリストとして無視され、忘れられてきた。しかし現在、福祉国家の成功や脱原発への思想的示唆、EUでの「グルントヴィ・プログラム」成人教育の実施という事情もあって注目が集まり、世界各国で研究の輪が広がりつつある。すでに英訳や独訳が刊行されているが、それはグルントヴィ理解のうえでは十分なものではないという。それゆえ、ここに刊行された邦訳は、研究の欠落を克服すべく、難解な「悪文」原典からの徹底した直訳と本格理解をめざしているようだ。訳者によれば、もともとグルントヴィは神学的背景をもっているが、同時に知の世俗化をめざす思想家として「哲学・学芸」を展開しており、それにかかわる原理的な思索がこれら二文献に収録されているとのことである。
以下、個別に紹介しておこう。『世界における人間』はグルントヴィのコスモロギーの書ともいうべきもので、小冊子ながら彼の世俗的世界論が体系的に凝縮されて展開されているという。訳者によればこの書物は、神学を哲学に翻訳した「若書きの書」で、グルントヴィにしては冷静な議論の展開になっているが、その後の思想展開のほとんどが萌芽のうちに含まれている。後者の『生の啓蒙』は成熟期の著作で、彼がとくに学問の上ではっきりと反帝国(主義)の自覚をもって、啓蒙を論じている。それゆえ、ローマやフランス、ドイツ啓蒙の抽象性やエリート主義が厳しく批判され、それを生活に埋め込む「生の啓蒙」、つまり反省的、歴史的啓蒙、しかも北欧の国民的(フォルケリな)啓蒙が対置されている。ここでは紹介しきれない多様な論点が含まれるが、人間理性ではなく、「太陽」を知の原理とすることは、デンマークの脱原発を考える上でも興味深い。今後グルントヴィを著名にした教育思想の翻訳が待たれるとともに、表題の邦語二文献の刊行を契機として、批判的論点を含む多様な研究が活発化することを期待したい。
『おしゃべり・雑談の政治哲学―近代化が禁じた女たちの話し合いと〈講〉』
岩谷良恵著(大月書店、2011年11月、\4200+税)
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本書は著者の社会教育研究の成果として博士論文をもとに公刊されたが、議論の射程は広く個別専門領域を越えたものであり、なぜ著者が現在ボリビアに滞在しているのかさえも暗示する好著である。論述に難解な部分はなく、明快さにおいてすぐれている。著者によれば近代化とは、市井の人々、とくに「講」に代表されるエリート世界とは無縁の女性たちのおしゃべりや雑談、相互扶助を抑圧する仕方で構成された新たな権力秩序である。この論点をハンナ・アーレントの活動概念や著者のジェンダー理解に依拠して多様な圏域で論証している。扱われる問題は、戦後社会教育への問題提起、おしゃべり・雑談の思想的意義、講の歴史、明治期以後の近代化の抑圧的問題性などであり、全体として、比較社会、比較文化を含む近代批判の社会・政治哲学になっている。著者のアプローチが通常の思想的研究の「思弁性」に対比すると、むしろ実証的方法に定位し、それを駆使していることは特徴的であり、民俗学や「思想の科学」の研究伝統にも連なるだろう。評者は、こうした近代批判がさらに包括的に展開されることを期待するとともに、著者には雑談やおしゃべりが抑圧されつくしてしまったのか、それらが命脈を維持する方途はあるのか、そのあたりも事もさらに聞いて見たいという誘惑に駆られてしまう。
『「もの」の思想―その思想史的考察』
津田雅夫(文理閣、2011年10月、3000円+税)出版社ページへ
この論集を筆者は自身の三部作(『和辻哲郎研究』、「人為と自然」、『戸坂潤と〈昭和イデオロギー〉』)についてのひとつの「まとめ」と位置付けている。同時にそれはこれまでの筆者の思想史研究、さらにこれまでの日本思想史の研究一般を根底から見直すという意味を持つ。日本文化の特徴として一般的に挙げられてきた「習合」、「雑種性」を指摘することにとどまるのではなく、そういった特徴が生じる根拠を問おうとするものである。その根拠として筆者は「もの」ということばの独自なあり方に注目する。このあまりに一般的に使用されるが故につかみどころのない「もの」という言葉の、そのつかみどころのなさを懸命に?まえようとする。ものが示す「いわゆる存在ではなく、なによりも文脈的な〈在り方〉」をめぐって思索がめぐらされ、この語を基底語として日本思想の固有性をあらためて浮かび上がらせようとする〈日本思想史序説〉という性格もつ野心的な著作である。
『大学生と語る性―インタビューから浮かび上がる現代セクシュアリテイ』
細谷実・田村公江編著(晃洋書房、2011年10月、2500円+税)出版社ページへ
本書は二部構成で第T部が9人の男女大学生に対するインタビューであり、性と恋愛、結婚、避妊、両親の性生活等々について9人がそれぞれ考えを述べている。彼らの語りはいかにも「フツー」だなと思わせる(といっても類型化されているという感じではなく、いかにもいそうだな、というリアルな感じを抱かせる)もので、現在の大学生の性に対する典型的な考えをそれなりに網羅し得ている、という印象を持つ。後半はインタビューをうけて編著者による以下のテーマについての考察:「DVが女性の性意識に与える影響」、「マイノリティのアイデンティティと他者」、「《異性愛》男性の性の語り方」、「性とコミュニケーション」「夫婦は何歳までセックスをすると思いますか?」という問いをめぐって」。性に関する考えという点でも、若者の意識という点でもいろいろな意味で勉強になる。
『新たな福祉国家を展望する―社会保障基本法・社会保障憲章の提言』
井上英夫・後藤道夫・渡辺治著(旬報社、2011年9月、1500円+税)出版社ページへ
周知の通り、現代では、多くの人々が社会保障を必要不可欠としている。しかし、現実には、社会保障制度の不備による不幸は次々におこっている。では、今、日本にいかなる社会保障が必要で、そこには、どんな原理・原則が貫かれていなければならないか。本書はこの問いに答えるものである。
意外なことに、この問いに回答を与えるものはそう多くない。たとえば、保育や医療の社会サービスは金銭給付がよいのか現物給付がよいのか、国と地方の役割分担はどう考えるべきか、福祉と就労の関係は、といった諸問題にどう答えを見いだせるのか。あるいは、これら全体の問題に通底するトータルな原理原則は何か。これらは、深められているようで、深められていないのだ。
これは要するに、社会保障に貫かれるべき原理原則が社会的に深められていない状況の反映だ。その現れの一つが、社会保障基本法の欠如である。基本法とは憲法上の権利を具体化するための諸原理を示したもの。たとえば、教育を受ける権利は憲法26条に規定され、それを具体化する原理・原則が教育基本法に示されているのだが、社会保障分野では25条があるにもかかわらず、教育基本法にあたる基本法がない。これでは、25条を実現するのに、いかなる原則やしくみが必要なのかが判然としない。被災者の失業手当延長打ち切りとか(そもそも失業手当給付期間短すぎ)、医療費の自己負担とか、保険証取り上げとか、子ども手当に所得制限とか、国立大で年間50万以上の学費とか、子ども子育て新システムとか、消費税とか…とか…とかって、25条的にどうよ、という問いにトータルにこたえる法がないのはいかにも不便だし、国民もわけがわからなくもなる、というわけだ。できうるならば「それっておかしい、かくあるべし」とちゃんと正当性をもって、社会全体で高々と宣言していただきたい。
そんなわけで、本書は、社会保障の拡充を求める運動と研究者が、いっそのこと、自分たちで社会保障基本法と社会保障憲章を作って普及してしまおうと書かれたものだ。
ちなみに、著者たちは、本書で、社会保障の「諸原則と哲学」(傍点引用者)を明らかにしようとつとめたという。本書では、大きな諸原則のレベルの議論と、かなり立ち入った制度的な論点の両方が描かれているが、私が読むところ、この点はきわめて重要な論点だ。社会保障に限らず、制度のやや細かい諸論点の一つ一つが、私たちがめざすべきオルタナティブな社会の原則に照らして、判断されていかねばならないのが、日本の今の現状だからだ。制度にも思想が必要だ。今だからこそ。本書はまさにこの状況に応えている。
社会保障をめぐる諸論点を学ぶためにも、また、困難をきわめる社会と格闘する学問とはどうあるべきかを考えるためにも、「政策提言でしょ」と言わず、本書をぜひ。
『出会いの音楽療法』
Ch.シュワーヴェ・U.ハッセ著/中河豊訳(風媒社、2011年9月、2800円+税)出版社ページへ
本書は、旧東ドイツ時代から今日に至るまで、社会的音楽療法の領域で活躍し、ヨーロッパ諸国に影響を広げているシュヴァーヴェの理論をその症例研究を紹介する諸論考と合わせて日本にはじめて紹介する書物である。全体は「出会いの音楽療法の本質」「出会いの音楽療法の教授法」「出会いの音楽療法の考え方が応用できる領域」三章からなり、体系的に理解できるようになっている。著者は個人の社会的疾患にたいし、たんに心理療法にありがちな生理学主義ないし個人還元主義、主観還元主義に陥ってはいない。訳者によればここでの基本概念は、「社会的な存在としての人間」、「出会い」、「社会的疾患」、「行為」、「フィードバック」である。これらの社会生活総体との関係と並行して個人の療法が音楽的コミュニケーションを媒介として意義づけられるのである。本書はその意味で誠実な社会主義的心理療法家の理論と臨床研究の結晶であり、抑圧体制イデオロギーとは区別されてしかるべきものであり、著者自身も体制イデオローグではもちろんない。じっさい、資本主義のグローバル化のなかで社会的疾患は拡大の一途を辿っているが、むしろその意味では、かつての社会主義の最良の遺産からも、現状の諸問題を超える学問的ヒントを探り出すことができるのではないだろうか。本書はそのための貴重な一礎石である。
『ジュニア 日本の歴史 7 国際社会と日本 1945年から現在』
大門正克著(小学館、2011年4月、\1,800+税)出版社ページへ
本書は、近現代史について既に多くの業績を挙げ、『近代日本と農村社会』(日本経済評論社)、『民衆の教育経験』(青木書店)、『戦争と戦後を生きる 1930年代から1955年』(小学館)等の単著を刊行している第一級の歴史研究者である著者が、小学校高学年生から中学生向けに現代史を分かり易く書いたものである。
もっとも本書は全300余頁の大著であり、内容・構成も、1945〜1960年までの戦後の出発と冷戦のはじまり(第一章)、1960〜1975年までの高度成長と冷静の時代(第二章)、1975〜1990年までの経済大国と国際化(第三章)、1990〜最近の東日本大震災にいたる現在までのグローバル化の時代(第四章)というように、正確かつ新たな時代区分・歴史記述を踏まえたものになっている。内容的には特に、アメリカの占領政策や高度経済成長や国際化等々に翻弄されながらも、同時にしぶとく主体的にも生き歴史を作ってきた民衆の姿が、子供の作文から歴史的文書にまで至る豊富な資料的裏づけを得て時代の基本的特徴と一体となって見事に描かれている。例えば児童文学作家の後藤竜二を丁寧に取上げながら、「高度成長が人びとをどのようにまきこんだのかということと、そのような時代のなかでも、人びとには現実をうけとめ、自分の足もとから出発する力があるということです」といった記述などは出色である。こうした点からしても、本書は少年少女向けの本だからといって、大人の我々が読まずに放置してよい本ではない。知識不足の評者ゆえのことだろうが、敗戦直後の飢餓防衛同盟結成に繋がった松谷天光光の活躍、米国軍による“撃沈”を即座に意識して無線使用をやめたからこそ日本に帰還できたビキニ被爆の第五福竜丸船長の英断、1955の平和アピールの7人委員会における上代タノの役割、小中学校の教科書無償化の完全実現は実は1969年になってからのことなどは、恥ずかしながら評者は本書によって始めて知った。本書の価値は大きい。
ただ、無いもの強請りになるかもしれないが、現代日本及び世界の貧困と格差の深刻さとその克服ための変革を考えた場合、評者の個人的志向からすれば、高度成長期末期からの革新自治体の経験を日本では未成熟な福祉国家問題へと繋げる視点や、ハンセン病や部落問題を取上げる本書であれば同時に優生保護法⇒母体保護法とその周辺の問題を、新宿リブセンターの田中美津の中絶論等と一緒に把握する論点、更には激しい競争問題を取上げるなら同時に能力主義問題そのものも、加えてグローバル化における多国籍企業問題と国家の壁といった諸論点も、本書に取り入れて欲しかったとは思う。
しかしともあれ、本書は、研究者を生業とする大人も含めて、あらためて戦後史を振り返るために、例えば自分の子供達(人によっては孫達)と一緒に読まれるべきだと思うし、大学にもよるかもしれないが、大学のゼミでの検討資料として取上げられるべき書でもある。多くの方に読まれることを期待したい。
『村上春樹の哲学ワールド―ニーチェ的長編四部作を読む―』
清眞人著(はるか書房、2011年4月、\1,900+税)
あらかじめ断っておかねばならない。著者清氏は、副題に村上春樹の「ニーチェ的4部作」と記しているが、これは村上氏が根本的にニーチェ主義者だから批判しますという意味ではない。逆である。著者は以前からニーチェを最大の批判的対象として研究を続けてきたが、その途上で、最もニーチェに近い者として三島由紀夫を取り上げて『三島由紀夫におけるニーチェ』(2010、思潮社)を上梓、その後に、「三島のごときニーチェへの圧倒的共感者ではなく、もう一人、むしろ、ニーチェとの対決を自分にとって重大きわまりなきこととして認識している作家を見つけたい」(あとがき)と考えていたときに出会ったのが村上春樹だったのだ。
したがって問題はニーチェとの対決である。『海辺のカフカ』を手にした時に著者は、1997年に起きた連続殺人事件、「酒鬼薔薇聖斗」なる少年が残した手記におけるニーチェの「引用」と、村上春樹が設定した小説の関連を直感する。主人公カフカ少年の14歳という設定は、少年Aの事件時と同じ年齢設定であり、村上春樹はその事件に対する「バトン・リレー」として『カフカ』を書いていると直感するのである。酒鬼薔薇―村上―ニーチェという連関の成立であり、「カラス」を媒介にした村上からのニーチェ批判を著者は読み解こうとする。清氏のもともとのテーマとしての「想像的人間」、「暴力」の概念と、村上春樹の「パラレル・ワールド」、「メタファー」、「非現実」、「セックス」といった設定が、その時渦を巻くようにして動き始める。村上春樹の時代感覚と著者の状況認識とが、文学と哲学がかみ合い始める。著者は故内海文三の友人であった。現代における、文学と哲学の連関を問うための一つの視点がここに設定されたのではないかという刺激を感じさせる一冊である。
『生きることへの共感――カントとマルクスの自由と生活の共存する社会』
原敏晴著(清風堂書店、2011年4月、\1,500+税)出版社ページへ
本書には「カントとマルクスの自由と生活の共存する社会」という副題が附されているが、マルクスの追求する社会変革を、晩期カントの政治哲学によって補強しつつ、両者が理想とした人間のありかたを整序し彫琢してゆこうというのが、ここでの目標である。たとえば「公共体」と訳されているカントの概念は、個人の自由を損なうことなく人間の共存をはかる社会ととらえられ、これが、将来社会像としてマルクスが描く「共同体」と重ね合わせて論じられる。検討材料として取りあげられるのは、カントとマルクスのほかに、アリストテレス、イエス、ルソー、コンドルセ、ヘーゲル、フォイエルバッハ、エンゲルス、チェルヌィシェフスキー、ガンジー、セン、馬場辰猪、北村透谷、戸坂潤など、多岐にわたる人物の思想である。古典的著作の解釈においてはなお詳論の余地があるだろうが、「カントやマルクスの全集などをもたない一般の働く人々」を読者として想定しつつ、おもに文庫本の翻訳にもとづき、人間の〈自由〉と〈共存〉という課題を追究してゆく著者の真摯な姿勢がよくあらわれている。著者は全国唯研2006年度大会にて「道徳律と弁証法の桎梏」と題する研究発表をおこなっているが、その内容に奥ゆきと広がりをもたせて仕上げたものが本書であるともいえよう。2段組みで280頁を超える本にして1500円という価格も魅力的である。
『芥川龍之介編『近代日本文芸読本』と「国語」教科書 教養実践の軌跡』
武藤清吾著(渓水社、2011年4月、\9,500+税)出版社ページへ
本文だけでも500頁を優に越える本書は、芥川龍之介が編纂した文芸読本のほか、菊池寛の文芸読本、「赤い鳥」や西尾実の国語観などを詳細に検討し、文学(国語)教育の「教材」配置や文芸観にこめられた日本型教養の特質を炙り出そうとする。
著者の視野はいわゆる文学教育の領域にとどまらず、自己涵養論に絡めとられる日本型教養観の陥穽をあきらかにし、さらには、そうした狭隘な教養観を超えてゆく可能性を芥川らの文芸読本編集(教養実践)の軌跡から読みとろうとしている。芥川、菊地、鈴木三重吉、北原白秋等が選択したテクストの意味をとらえる綿密な分析をつうじて、近代日本の教養観を批判的検証にかけてゆく手続きは見事であり、大正教養主義にかんするこれまでの議論とは異なるアプローチから、日本型教養主義の性格をあきらかにした労作と言える。
本書は著者の一貫した問題意識と長年にわたる研究が結実した貴重な成果として、教養をめぐる問題圏に関心を寄せるすべての人に一読をすすめたい。
『低線量内部被曝の脅威─原子炉周辺の健康被害と疫学的立証の記録』
ジェイ・マーティン・グールド著/肥田舜太郎・齋藤紀・戸田清・竹野内真理共訳(緑風出版、2011年4月、5,200円+税)出版社ページへ
本書は、2011年の福島原発事故の前から出版が準備され、直後に出版された。本書は、大気圏核実験による放射性降下物等の影響をサーベイするとともに、1950年以来の公式資料を用いてアメリカ国内の原子炉等が乳癌死亡リスクを高めることを明らかにしており、事故後の私たちにとって、大変重要な知見を提供してくれるものである。
原書 ”The Enemy Within: The High Cost of Living Near Nuclear Reactors Breast Cancer, AIDS, Low Birthweights, And Other Radiation-induced Immune Deficiency Effects” は1996年に出版され、邦訳が『内部の敵 高くつく原子炉周辺の生活 乳癌、エイズ、低体重児出産、放射線起因性免疫異常の影響』として肥田舜太郎、高草木博他の訳で1999年に自費出版されていた。しかし、英語原書、邦訳ともに絶版状態となっていた。
本書の巻末には「核時代の構造―『内部の敵』改訂訳に際して」として訳者の一人である齋藤紀氏が本書の意義を述べている。また、会員の戸田氏が「訳者あとがき」を担当しているが、氏の他の翻訳や著作同様、多数の参考資料が紹介されている。
本書の構成は以下の通りである。
はじめに
概観と要約
第一章 序論:放射性降下物と郡の乳癌発生率
第二章 放射性降下物と免疫異常
第三章 低出生体重児とベビーブーム世代の免疫不全
第四章 乳癌死亡率と原子炉からの放出物
第五章 1950年以降の乳癌死亡率の地域差
第六章 国立癌研究所はなぜ、原子炉の周辺での発癌リスクの増大を見逃したのか
第七章 原子炉周辺における発癌リスク増大の本質
第八章 放射性降下物と乳癌
第九章 もう遅すぎるだろうか
付録
核時代の構造―「内部の敵」改訂版に際して
訳者あとがき
『情報と自律性の管理―IT化する現代管理の物象化論』
竹内貞雄(晃洋書房、2011年3月、3000円+税)
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本書は、情報化・IT化の進行する現代の労働とその管理をめぐって、三部構成によって原理論、自律的労働の成立可能性、監視批判について、解明を試みたものである。
第T部においては、今日の情報化社会を理解する視点として物象化に注目し、「情報による差異化」、批判的に解釈した「オートポイエーシス論」、「過程としての技術(具体的には空間技術・時間技術)」といった新しい概念を原理論として提示し、情報技術のもたらす疎外の先鋭化を論じている。
第U部においては、知識経済の進行のなかで「自律分散管理」の管理形態への移行こそが求められることに注目し、人間労働における自律性の進展の可能性を論じるとともに非正規雇用の拡大に警鐘を鳴らしている。
第V部では、フーコーとポストモダン論者の生権力論の想定する監視・権力論を取り上げ、それらの想定とIT技術の監視の現実のあり様とが大きく乖離していることを指摘し、その理論的問題点を管理論視座の欠落に見いだしている。
本書の構成は以下の通りである。
序 章 物象化概念について
第T部 情報と技術の構造をとらえる新しい方法論
第1章 情報における差異化の構造
第2章 オートポイエーシス論再考
第3章 過程としての技術
第U部 自律的労働の可能性を求めて
第4章 モチベーション論における労働の自律性への接近
第5章 自律的労働の成立と展開
第V部 現代企業と社会の監視・権力問題への管理論視座
第6章 現代企業と社会における「監視」問題
第7章 現代企業と社会の監視悪構造
第8章 ポストモダンの生権力論批判
終 章 現代の自律性管理をめぐって
『社会経営学研究――経済競争的経営から社会共生的経営へ』
重本直利編著(晃洋書房、2011年3月、\3,800+税)出版社ページへ
本書は編者の重本氏を中心とした15人にも及ぶ研究者の共同研究の浩瀚な著作であり、その中心的問題意識は、社会共生型の経営の確立である。この理念にしたがい、本書の内容は経営原理論から社会管理論、企業経営論、地域経営論、経営学説史などきわめて多岐にわたる内容が論じられて、ひとつの新型経営パラダイムを提起している。著者たちによれば、今日、企業の社会的責任(CSR)や企業市民といった概念が盛んに議論されるようになってはいるが、そのほとんどは既存の資本主義企業経営を前提とし、それを外延的に拡大するものにすぎない。そのさい経済合理主義の原理になんら変更はなく、つねに長時間労働や失業、家庭や地域社会など非企業型諸社会を疎外する構造を変更するものではないとしている。このことから、本書の全体が経営概念の内包的転換を提起し、またその基礎準備に充てられている、つまり、経営は経済合理性や企業中心性ではなく、多様な市民社会の圏域との共生をめざす包括的な社会的合理性に定位させることを企図している。
新自由主義経営に日々痛めつけられている私たちにとって、「経営」概念にはしばしば不快な響きが伴うが、本書はこのことの逆転をめざす野心的な構想を描いている。私たちはここに着実であるが、社会転換に向けた射程の長い歩みの出発点を見ることができる。本書を参考としながら、多様な領域でこうした試みと共振する学術的ムーヴメントを期待せざるを得ない。
『復興と離陸 (高度成長の時代1)』/『過熱と揺らぎ (高度成長の時代2)』/『成長と冷戦からの問い (高度成長の時代3)』
大門正克他編(大月書店、2010年10月・12月・2011年3月、各\3,800+税)出版社ページへ
編者の専門分野が、歴史学、社会学、経済学、教育学、政治学と多岐に渡っており、さらに24名の執筆者によって、より広い社会科学の各領域の成果が取り込まれて、時代を多層的に描こうとする野心的な意欲に溢れているといえる。このようにまとめると、大風呂敷的な印象を与えるが、そうではなく、一つひとつの論文は、むしろ限定された領域のなかでの緻密な叙述がなされ、さまざまな示唆が得られる。重層的な視点と個別性にこだわる叙述を評価すべきである一方で、いろんな問題が拡散しているような印象も受ける。そういう時代だったのかもしれないとも考えられるし、大きな時代としてのまとまりを把握したいというもどかしさも残される。今後、この分野の研究の礎となり、議論はここから始まるはずだ。広く読まれるべき成果として、これからの議論を活性化することが期待できる企画といえる。
『専門学校の教育とキャリア形成 進学・学び・卒業後』
植上一希著(大月書店、2011年3月、\3,600+税)出版社ページへ
本書は、表題のとおり、専門学校の教育の内実、意義について、教員や学生への聞き取り調査を中心に実証的に研究しその現代的意義をあきらかにしようとした労作である。
専門学校の研究と聞いて、教育に関する研究のなかでも特殊な特定領域をテーマにしていると感じる向きがあるかもしれない。本書はそのような通念の成立の経緯自体から説き起こされる。高度成長期以後の日本で支配的では〈高校普通科―大学進学―大卒一括就職―企業におけるキャリア形成〉という「標準的キャリア形成」モデルが支配的であり、専門学校はその支配的モデルの枠外に置かれていた。この支配的モデルを前提として専門学校を大学進学の代替としてのみ捉える、あるいは、また卒業後の就職率に注目して、就労の点からのみ専門学校を評価するのではなく、本書は新たな専門学校観を提示しようとする。
専門学校を検討する際に本書が重視するのは、就労にかぎらず、さまざまな青年期固有の課題にこたえる「青年期教育」という視角、また、たんなる就労に限定されないより広い意味での職業教育という視点である。このふたつの視点から専門学校についての分析が進められるが、さまざまなマクロデータとともに、独自に収集したミクロデータである専門学校生と卒業生、そして専門学校の教育内容編成担当者への聞き取り調査が本書の貴重な研究素材であり、また本書の独自性をつくっている。ふつうの統計データなどからは見えてこない、青年にとって専門学校での学びがもつ意味が、これらの聞き取りデータから浮き彫りにされる。そこから従来の専門学校観の視野には入っていなかった専門学校教育の人間形成的側面、そのもとでの専門学校生のキャリア形成の積極性、青年としての成長といった側面が示される。
本書は現代日本の青年のリアルなイメージを掴むうえで示唆に富む好著であり、教育学という狭い分野の枠を超えて読まれるべきものである。
『男が暴力をふるうのはなぜか そのメカニズムと予防』
ジェームズ・ギリガン著/佐藤和夫訳(大月書店、2011年2月、\2,800+税)出版社ページへ
本書は、アメリカの精神科医で、すでに暴力についていくつもの著作を発表しているジェームズ・ギリガンによる近著の翻訳である。ギリガンは、ケア倫理学で知られるキャロル・ギリガンのパートナーとしても知られている。
本書のテーマは暴力の予防である(原題はPreventing Violence(暴力を予防する))。ギリガンは暴力についての従来の法的道徳的アプローチの間違いを指摘し、公衆衛生学・予防医学アプローチの必要性、つまり、「その人に暴力を引き起こさせたのは何か」を明らかにし、そうした暴力が引き起こされないためになしうることは何なのかを考えることの必要性を訴える。
その際ギリガンは予防医学の三段階論を暴力の予防に応用し、リスクの高いものにたいする早期介入(第二段階)や、すでに病気の者(この場合暴力行為を行った者)にたいする治療的介入(第三段階)ではなく、すべての人にたいする第一段階の予防措置(第一段階)がもっとも効果的であると訴える。
そこからギリガンは、彼が30年もの監獄での臨床経験から暴力を引き起こすもっとも重要な要因であるという「恥」の感情を防ぐことが、暴力予防のために必要であると主張する。そしてこうした「恥」の感情を抱かせるものはその者の社会経済的状況と密接に関係しているのである。
処罰感情の高まりの中、厳罰化の進みつつある日本で今読まれるべき一書であろう。
『レイモンド・ウィリアムズ――希望への手掛かり』
高山智樹著(渓流社、2010年12月、\5,600+税)
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本書は20世紀イギリスを代表する思想家であり、イギリスの《カルチュラル・スタディーズ》の源流のひとり、レイモンドウィリ・ウィリアムズ(1921-1988)に関する本格的研究である。
本書では歴史的時間軸に沿って、ウィリアムズの生涯に即しながら彼の研究の展開が論じられている。第1章では青年ウィリアムズの挫折に満ちた青年期が描かれ、第2章ではその挫折を克服し『文化と社会』『長い革命』等の著作を送り出した1940,50年代の思想が論じられる。第3章は世界的に政治的機運の高まった1960年代をウィリアムズがいかに経験したか、第4章は彼がその経験を文学研究とつきあわせ、文化研究への足掛かりをつかもうとした60年代から70年代にかけての思想が扱われ、第5章では彼の文化研究の基盤となる文化理論である「文化唯物論」が確立される70年代の思想、そして第6章で80年代とその死後の時代が考察の対象とされる。
500ページを超える紙数を費やして詳細にウィリアムズの思想が論じられる本書の意義はまことに大きい。ひとつには、本邦では《カルチュラル・スタディーズ》という言葉が一時、一種の流行のように注目を集め、またその種の受容の宿命として古びたものとして早々に批判され、すでに葬られてしまった感がある。しかしイギリスにおけるこの概念の誕生の経緯、意義は決して十分に知られ研究されてはこなかった。本書はその大きな欠落を埋めるのに十分な大著である。さらに、より大きな問題系として、マルクス主義的思潮における文化の意義、位置付け、研究視角はいまだ定見が存在するとは言い難い現状がある。ウィリアムズの思想は、この問題に関するきわめて重要な理論的貢献であり、本書から学ぶべきことはきわめて多いといえる。マルクス主義における文化の理論的扱いに少しでも興味のある方は、是非とも手に取られることをお勧めしたい。
『フィヒテ――『全知識学の基礎』と政治的なもの』
木村博編(創風社、2010年8月、\2,800+税)
フィヒテの哲学について、その基礎づけである『全知識学の基礎』の核心にある「実践理性の優位」と、具体的実践的な問題、特に政治的なものとの 連関に焦点をあてた論文集。編者の木村博氏が、片山善博氏と大河内泰樹氏が中心となって運営していた一橋大学大学院の自主ゼミに招かれたことから 始まったフィヒテ読書会の成果であり、論文、座談会、インタビュー、コラム、文献目録・年譜を含め、十五人以上が関わった労作である。
本書の中心である「第一部 『全知識学の基礎』と政治的なもの」は、七つの論文からなるが、「第一章 第一根本命題と立言判断」(木村博)、 「第二章 理論的知の臨界」(大河内泰樹)の二論文は『全知識学の基礎』そのものを理論的に分析している。それを受けて中間の、「第三章 「永遠 平和論論評」と知識学」(新川信洋)、「第四章 相互承認論の原理と展開」(片山善博)、「第五章 承認と応責」(馬場智一)の三つの章では、 『全知識学の基礎』を前提とした「永遠平和論論評」「言語能力と言語の起源について」『自然法の基礎』などのフィヒテ実践哲学の展開を扱う。平和 論や承認論などのトピックについて、カント、ヘーゲル、レヴィナスなどと連関させつつ論じられている。ここまでの5論文は論文間で重なっているテーマも多く、「知識学」から「政治的なもの」へスムーズに移行している。その後、「第六章 ドイツユダヤ人による受容から見るフィヒテ政治思 想」(船津真)、「第七章 フィヒテ政治思想の日本受容」(栩木憲一郎)はともに『ドイツ国民に告ぐ』を中心にフィヒテにおけるナショナリズムと 普遍主義との関係の問題を、受容の諸相を通じて浮かびあがらせる。
第二部には、木村博氏に入江幸男、岡田勝明の両氏が加わって「フィヒテのアクチュアリティ」を議論しあった座談会があり、フィヒテの専門家以外 の人が読んでも、現在のフィヒテ研究の動向が理解できるようになっている。さらにフィヒテ専門家には欠かせないであろう「日本語で読めるフィヒテ 文献目録」がついている。
なお、短いコラムも五編あり、あまり知られていないフッサールとフィヒテとの関わりなど、興味深いテーマが取り上げられている。
全体として、フィヒテの専門家にも、非専門家にも有用なようによく考えられて構成された本となっている。
『近代筑豊炭鉱における女性労働と家族――「家族賃金」観念と「家庭イデオロギー」の形成過程』 野依智子著(明石書店、2010年2月、\4,500+税)出版社ページへ
周知のように従来の歴史学では、低賃金で周辺的な女性労働力の存在が日本近代の急速な資本主義化の不可欠な基盤をなしていたことと論じられてきた。一方、近年では、ジェンダー問題に即した議論も登場してきている。こうした研究では、労働者においても性別役割分業に基づき、子育てを中心にして、情愛で結びつくという近代家族モデルを志向することにより、女性が家庭労働に縛り付けられる一方、労働者としては周辺的な地位に止めおかれたと捉えられている。野依智子『近代筑豊炭鉱における女性労働と近代家族』は、こうした観点から、日本近代において、労働者の家族賃金と労働におけるジェンダー構造がいかに形成されたかを近代筑豊に即して実証的に明らかにしている。
本書によれば、近代筑豊炭鉱では労働市場における女性の劣位がもともと存在していたわけではなく、ある時期までは女性労働が重要な位置をしめていたという。しかし、こうした構造は1919年以降の国際労働規制の国内実施を契機に変容し、その後は、女性が低賃金の周辺的労働者として位置づけられていく。この構造が作られる際、重要な役割を果たしたのが男性が主たる稼ぎ手だという「家族賃金」観念であった。さらに、坑内保育所、生活改善運動や安全運動を通じて、近代的家庭生活に基づく近代家族イデオロギーの浸透が図られていくという。従来、近代日本の労働者家族における近代家族形成と労働過程変容の実証的解明にとり組んだ研究はそれほど多くなかったが、本書はその課題にとり組んだ労作といえよう。
『アントニオ・グラムシ―『獄中ノート』と批判社会学の生成』
鈴木富久著(東信堂、2011年2月、\1,800+税)出版社ページへ
ここに紹介する二冊のグラムシ本は、著者がこの数年に矢継ぎ早に刊行したライフ・ワークのグラムシ研究三部作の一部である。著者はすでに『グラムシ「獄中ノート」の学的構造』(御茶の水書房、2009年)を上梓しており、学術研究書としてグラムシ獄中ノート研究の現代的地平を世に問うているが、ここで紹介する二冊の姉妹篇の前者は、著者のグラムシ研究史とも言うべき論文集であり、後者は、全体を入門者向けに概括した啓蒙書という位置づけになると思う。
まず最新刊の『アントニオ・グラムシ』についてふれれば、たしかにグラムシの生涯の紹介を含む啓蒙書ではある。だが、2章以降は理論探求が中心となり、おそらく研究入門とでも性格づけた方が適切かもしれない。そこには「遅れた」島嶼生まれの貧しい家庭の青年が、後年、熱心で広範囲の学術探求と真摯な社会的政治的理想の模索、厳しい政治的環境に抵抗してマルクスやレーニンに引かれ、獄中での共産主義の問題点の自覚と新パラダイムの探求のなかに残された『獄中ノート』の出生の秘密が紹介される。それはまさに、二〇世紀共産主義の最良の理論(家)を象徴するものといえる。だが、著者は同時に、グラムシの理論の現代的な射程をとくに、批判的社会学の可能性という側面から解明しており、読者は実践の哲学、政治・社会論、歴史理論、学問方法論など、現代にまで及ぶ体系的なグラムシ理論の射程を再認識することができる。それは二〇世紀が直面した理論諸課題の全体を網羅するものとして、私たちが引き継ぎ、さらに展開すべき一つのパラダイムが示しだされている。
この総論的な『アントニオ・グラムシ』の個々の主題は、著者の論文集といえる『グラムシ「獄中ノート」研究』にいっそう詳しく展開され、論証されている。ここで詳しく紹介する余裕はないが、一点、哲学議論にかかわって言うと、著者は通説に反してグラムシの実践の哲学が唯物論に立脚するものではなく、もはや唯物論をも観念論を越えた原理に立つ思想家だと問題提起しており、この独自主張もまた本書で詳しく論証されている。こうして、二冊の姉妹本は体系性、厳密性、独自性を取り揃えた、手堅い獄中ノート徹底であり、グラムシ研究現代的な到達点を示すだけでなく、私たちに(理論)研究の精神を提示してくれている点でも優れたものといえる。
『学生たちの目から見た「ホームレス」』
鈴木忠義編(生活書院、2010年1月、\2,200+税)出版社ページへ
本書は、編者の所属する立教大学コミュニティ福祉学部福祉学科の科目「福祉ワークショップ」の授業実践をもとにして編集された著書であり、「新宿・スープの会のフィールドから」と副題にあるとおり、編者が活動するボランティア団体の取り組みがまとめられている。以下目次を掲げる。
序 「ホームレス」と呼ばれる人々の生活を理解する
第1章 「ホームレス」の人々への訪問活動を体験して
第2章 活動参加レポート
第3章 体験を通して考えたホームレスと社会
第4章 「発見!学生の底ちから」
「ホームレス」という誰もが報道や想像で知っているような気持ちになっているが、その実態や統計的な資料を通じて理解することは難しい問題であるが、そのような実は身近に存在する知られざる世界を、学生とともに体験し科学的に理解する方向性を示す好著といえる。